1959年、浪華商業高校卒業後、東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)に入団すると、1年目から活躍して新人王を獲得するほか、最終的には、プロ野球最多の通算3085安打、プロ野球唯一の500本塁打300盗塁、プロ野球最多の16度のシーズン3割を達成するなど、輝かしい成績を収めた、張本勲(はりもと いさお)さん。

そんな張本勲さんは、小学5年生の時に、近所の野球チームに所属していたお兄ちゃんに人手が足りないからと誘われて、初めて(遊びではない)野球をしたそうですが、

中学生の時に、プロ野球の試合を観に行った後、巨人の選手の後をつけて宿舎まで行くと、食堂で、選手たちが大きなステーキと真っ白なご飯を食べ、札束で分厚くなった財布を出して金銭のやり取りをしているのを見て、野球選手になる決意をしたといいます。

今回は、張本勲さんの、生い立ち(幼少期から中学時代まで)をご紹介します。

張本勲

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張本勲のプロフィール

張本さんは、1940年6月19日生まれ
広島県広島市大洲町(現・南区大州)の出身、

(韓国暦の6月19日で、日本暦とは少し違うそうですが、この生年月日としているそうです)

身長181センチ、
体重85キロ、

血液型はO型、

学歴は、
広島市立比治山小学校
⇒段原中学校
⇒松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制
⇒浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商中学校・高等学校)卒業

ちなみに、張本さんは在日韓国人二世で、本名は「張勲(장훈(チャンフン))」、愛称は「ハリさん(張さん)」「ハリ」「ハリやん」「ハリー」です。

また、張本さんは、3人兄姉(兄1人姉2人)の末っ子だそうです。


張本勲は幼い頃は戦争中でいつもお腹をすかせていた

張本勲さんは、在日韓国人のお父さんとお母さんのもと、3人兄姉(兄1人姉2人)の末っ子として、大洲町の猿猴川(えんこうがわ)に架かる東大橋の近くにある長屋で誕生すると、

戦争中だったことから、日本中が食糧難だったそうですが、張本家は特に貧乏だったそうで、幼い張本勲さんは、いつもお腹をすかせていたそうです。

そんな中、お父さんが、韓国に帰国中、そこで食べた、太刀魚の骨が喉に引っかかったことが原因で亡くなるという不幸に見舞われたといいます。

張本勲は4歳の時に右手に大やけどを負っていた

そんな張本勲さんは、4歳の冬、近所の子供たちと一緒に山で見つけたさつまいもを猿猴川の土手で焚き火をしながら焼いていたそうですが、

そこに、突然、三輪トラックがバックで突っ込んできて、跳ね飛ばされて、焚き火の中に落ち、右手に大やけどを負ってしまったそうで、小学4年生の時に右手の手術を受けるも、元には戻らなかったそうです。

張本勲は5歳の時に原爆投下に遭うも無事だった

また、張本勲さんは、5歳の時には、原爆投下に遭っているのですが、自宅は、爆心地からわずか2.5キロの距離にあったにもかかわらず、海抜約70メートルの比治山(ひじやま)が、原爆の熱線を遮ってくれたそうで、家にいた張本勲さんとお母さんとお姉さんは無事だったそうです。

そして、その後、お兄さんも無事に帰宅し、4人は喜びの再会を果たしたそうですが・・・

一番上のお姉さんだけは、勤労奉仕のために出かけていた比治山で、原爆の熱線をまともに浴びて全身に大やけどを負ってしまったそうで、懸命の看病の甲斐なく、ほどなくして他界されたそうです。


張本勲は小学5年生の時に野球を始めると初打席でいきなり二塁打を放っていた

張本勲さんは、日本の太平洋戦争敗戦後は、極貧生活を余儀なくされたそうですが、


お母さんがホルモン焼き屋を始めると、やがて、店が繁盛したことから、極貧生活から脱出することができたそうです。

そして、小学5年生の時には、町内の野球チームに所属していた近所のお兄ちゃんから、人数が足りないと誘われ、それが嬉しくて、言われるがままについていくと、「勲ちゃんはそこを守っとけ」と、右手用のグローブを渡されたそうで、これが、張本勲さんにとって、初めての(遊びではない)野球だったそうです。

すると、張本勲さんは、下手の代名詞である「ライパチ」(守備はライト、打順は8番)だったそうですが、初打席でいきなり二塁打を放ったそうで、張本勲さんは、自分でもこれに驚き、以来、野球に興味を持つようになり、声をかけてくれたお兄ちゃんに、しばしば、また連れて行ってくれるよう、せがむようになったそうです。

ちなみに、張本勲さんは、「4番でピッチャー」に憧れて、初めのうちは、不自由な右手でボールを投げていたそうですが、指が開かないため、どうしても遠くまで投げられず、かと言って、速い球をまっすぐに投げることも難しかったため、仕方なく左投げに転向すると、小学6年生の頃には、完全な左投げになったそうです。

張本勲は中学生の時にお金のためにプロ野球選手になることを決意していた

それでも、張本勲さんは、この時は、(水泳が得意だったため)水泳の方が好きだったそうで、中学進学後は、本当は水泳部に入りたかったそうですが、進学した広島市立段原中学校には水泳部がなかったことから、仕方なく、水泳の次に好きだった野球部に入ったそうです。

そんな張本勲さんは、中学生の時には、しばしば観音球場(広島県総合グランド野球場)にプロ野球の試合を観に行っていたそうですが、ある時、試合が終わった後、巨人軍(読売ジャイアンツ)の選手たちを追いかけて、選手たちが宿泊していた日本旅館に行き、塀をよじ登って中の様子を伺うと、

ちょうど食堂が見え、選手たちが大きなステーキと真っ白なご飯を食べ、札束で分厚くなった財布を出して金銭のやり取りをしているのが見えたそうで、

張本勲さんは、自分たちは苦しい生活なのにと、この光景にショックを受けると同時に、プロ野球選手はこれほどまでにお金持ちになれるのかと思い、プロ野球選手になる決意をしたといいます。

張本勲は中学3年生の時にはエースで4番に起用されていた

こうして、張本勲さんは、おいしいものをお腹いっぱい食べたい、お母さんに楽をさせてあげたいとの思いから、プロ野球選手を目指し、本格的に野球の練習に打ち込むと、

1年生の時には、代打の出場だけだったのが、2年生の時にはレギュラー、3年生になる頃には、かねてより憧れていた「エースで4番」に起用され、打撃練習では、長打を飛ばしてはよく校舎の窓ガラスを割っていたことから、特に打撃で注目を集めたそうです。

張本勲は中学3年生の時に素行不良が原因で強豪校・広島商業高校を不合格になっていた

そんな張本勲さんは、中学卒業後は、強豪校・広島商業高校に進学したいと考えていたそうで、同校の山本一義さんにも入学を誘われ、広島商業高校の練習に参加すると、

打つ、投げる、走る、の評価はどれも三重丸で、さらには、勉強の方も「中の上」だったことから、「合格」を信じて疑わなかったそうですが・・・

素行が悪いという理由から、まさかの不合格になってしまったそうです。

(体が大きかった張本勲さんは、小学4年生ぐらいの頃から、些細なことでよくケンカをしていたそうで、中学生の時には、大人のヤクザ相手にケンカ三昧だったことから「段原(中学)のハリ」と呼ばれ、ガキ大将として恐れられていたそうです)


張本勲は中学卒業後は松本商業高校に進学するも強豪・浪華商業高等学校へ行きたくてたまらくなっていた

その後、張本勲さんは、第二志望だった広陵高校も、面接で余計なことを言ってしまったために不合格となると、お兄さんの尽力でなんとか松本商業高校に進学したそうですが、野球部は、弱小チームだったため、不満を募らせていたそうで、

そんな中、たまたま、雑誌の記事で見た、強豪・浪華商業高等学校(浪商)へ行きたくてたまらなくなったといいます。

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張本勲は高校1年生の時に松本商業高校から浪華商業高等学校に転入していた

そこで、張本勲さんは、お兄さんに、浪商へ転校したい旨を伝えるも、お兄さんからもお母さんからも叱られたそうですが、

その後も、顔を合わせるたびに、お兄さんに浪商への転校を頼み込むと、ついに、お兄さんは浪商への進学を許してくれたのだそうです。

ただ、肝心の、浪商の野球部の監督兼部長の中島春雄先生がすんなり受け入れてくれず、さすがに、張本勲さんもあきらめかけていたそうですが・・・

ここでも、お兄さんの尽力で、無事、浪商に編入することができたのだそうです。

「【画像】張本勲の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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