1953年、大阪(阪神)タイガースに入団すると、俊足巧打・好守の遊撃手として1年目から16年間不動のレギュラーとして活躍し、現役引退後は、阪神タイガースの監督を3度務め、1985年には、当時、球団史上唯一の日本一を達成した、吉田義男(よしだ よしお)さん。

今回は、そんな吉田義男さんの若い頃(監督時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

吉田義男

「【画像】吉田義男の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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吉田義男の30代~40代の頃

37歳~41歳の時にはテレビ解説者として活動しつつステーキハウス「モンド」を経営していた

1969年。36歳の時に、現役を引退した吉田義男さんは、1970~1974年には、関西テレビで解説者として活動しつつ、兵庫県西宮市門戸厄神でステーキハウス「モンド」も経営していたそうです。

(1970年には、阪急ブレーブスの監督だった西本幸雄さんが、直接、「モンド」に来店してきて、内野コーチのオファーを受けたほか、中日からもコーチの誘いを受けたそうですが、阪神以外のユニホームを着る気になれず、いずれも固辞したそうです。また、人を介し、非公式に他チームから選手としても打診があったそうですが、こちらも固辞したそうです)

37歳の時から5年間毎年渡米してメジャーの野球を勉強していた

また、吉田義男さんは、1970年、37歳の時には、テレビで解説の仕事をしつつ、渡米してメジャーリーグの野球を勉強したそうで、以降、5年間、毎年渡米してメジャーの視察を繰り返したそうです。

41歳の時に阪神監督に就任

そんな吉田義男さんは、1974年10月には、なぜか、球団社長でも、オーナーでもない、あるマスコミの人物から阪神監督就任へのオファーを受けると、これを承諾し、阪神の監督に就任しています。

42歳の時にトレード寸前だった江夏豊投手の残留を申し入れていた

こうして、阪神の監督に就任した吉田義男さんは、すぐに、トレード寸前だった江夏豊投手の残留を申し入れると、江夏豊さんは、見事、その期待に応え、監督就任1年目の1975年には、開幕戦で完投し、吉田義男さんは監督初勝利を果たしているのですが、

吉田義男さんは、江夏豊投手の再建に取り組みつつ、「阪神相撲部屋」と言われるほどに太り過ぎだったベテラン勢の体を引き締め、俊敏な動きができるようにと、選手たちを徹底的に走らせる「スリム化」作戦を進めます。

(このシーズン、阪神は3位)

43歳の時にはドラフト6位指名で入団した掛布雅之が急成長していた

そして、2年目の1976年には、前年度の1/3の選手を入れ替えるなど、チーム改革を行ったそうですが、そんな中、1973年にドラフト6位指名で入団した掛布雅之選手が急成長すると、

チームは、最終的には2位に終わったものの、193本塁打と当時のプロ野球記録を更新する成績で、シーズン終盤には、巨人と一騎打ちを演じます。

掛布雅之と吉田義男
掛布雅之さん(左)と吉田義男さん(右)。

44歳の時に阪神監督を解任されていた

吉田義男さんは、監督就任1年目の1975年は3位、2年目の1976年は2位と、着実に成果を上げていたのですが、3年目の1977年には、開幕のスタートは好調だったものの、その後、連勝と連敗を繰り返すなど安定せず、

シーズン終盤、球団ワーストタイとなる9連敗を喫すると、そのまま浮上できず、結果、4位でシーズンを終わると、あっさり、阪神の監督を解任されてしまいます。

吉田義男の50代の頃

52歳の時に2度目となる阪神の監督に就任

その後は、解説の仕事をしていた吉田義男さんですが、1985年、突然、阪神の久万俊二郎オーナーから監督のオファーがあったそうで、驚きつつも、このオファーを引き受け、再び、阪神の監督に就任しています。

すると、吉田義男さんは、まず、始めにコーチ陣の編成に着手し、コーチ陣に「一蓮托生内閣」を提案すると、その後は、二塁手から外野手にコンバートされていた岡田彰布選手を二塁手に復帰させます。

また、安藤統男前監督の来季構想では不要とされ、解雇される寸前だったランディ・バース選手の残留を強く訴えたといいます。

52歳の時にランディ・バース、掛布雅之選手、岡田彰布選手が3者連続でバックスクリーンにホームラン

そして、残留させたランディ・バース選手を3番ファーストで起用すると、1985年4月17日には、甲子園の巨人戦で、ランディ・バース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手が3者連続でバックスクリーンにホームランを放っているのですが、吉田義男さんは、これを見て、鳥肌が立ったといいます。

バックスクリーンにホームランするランディ・バース
1985年4月17日、バックスクリーンにホームランするランディ・バースさん。

52歳の時に21年ぶりのリーグ優勝&日本一

その後、吉田義男さん率いる阪神タイガースは、このまま、破竹の勢いで快進撃を続けると、1985年10月16日、マジック1で迎えたヤクルト戦では、接戦の末、5対5の引き分けで、21年ぶりのリーグ優勝。

その後、日本シリーズでも、西武ライオンズを下し、見事、球団初の日本一にも輝いています。

1985年
吉田義男さん(左)と岡田彰布さん(右)。

54歳の時に阪神の監督を解任される

ただ、1986年は3位、1987年は、開幕から黒星地獄で、結局、浮上できぬまま、41勝83敗6引き分けと、球団史上最低の勝率3割3分1厘で最下位に沈んでしまい、吉田義男さんは、同年10月、阪神の監督を解任されたのでした。


(1987年は、主力だった掛布雅之さんが酒気帯び運転で逮捕され、久万俊二郎オーナーに欠陥商品とまで言われたことでプライドをズタズタにされて、すっかり気落ちしてしまい、106試合出場で、打率2割2分7厘、12本塁打、45打点と、成績が大きく沈んだことから、これが影響し、阪神も最下位に沈んだのでした)


54歳の時にフランスの野球チームの監督に就任

それでも、吉田義男さんは、この年(1987年)の年末、フランスの野球チームの監督を依頼されると、この申し出を受け、1989年には、フランスの野球チームの監督に就任し、

1990年からは、フランス・ナショナルチームの指導も始めると、以降、7年間、フランス野球に携わっています。

フランスナショナル監督時代の吉田義男
フランス・ナショナルチーム監督時代の吉田義男さん(左から2番目)。

吉田義男の60代の頃

63歳の時には3度目の阪神監督就任オファーを受けるも一旦は断っていた

すると、吉田義男さんは、1996年10月2日深夜、フランスから一時帰国していた際、阪神タイガースの三好一彦球団社長から、電話で、3度目となる監督就任オファーを受けたそうで、一旦は固辞したそうですが、

フランスの選手がひたむきに練習に取り組む姿をみるうち、阪神のナインにそのひたむきな姿を伝え、初心を思い出してもらうことが自分の使命なのでは、と考えるようになり、監督のオファーを引き受けたそうです。

65歳の時に3度目の阪神監督を辞任

こうして、1996年、63歳の時、阪神タイガースの3度目の監督を引き受けた吉田義男さんは、新庄剛志選手や桧山進次郎選手を育てつつ、トレードで矢野輝弘選手を獲得するのですが、

1年目の1997年は5位、2年目の1998年は最下位となり、監督を辞任しています。

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吉田義男の70代~90代(現在)

2023年1月13日には、吉田義男さんの第一次監督時代に活躍したランディ・バースさんが野球殿堂入りしているのですが、吉田義男さんはその通知式に参加し、ゲストスピーチを行っています。

ランディ・バースの野球殿堂入りでスピーチする吉田義男
ランディ・バースさんの野球殿堂入りでスピーチする吉田義男さん。

また、同年11月5日、90歳の時には、阪神タイガースが38年ぶりの日本一になっているのですが、これは、1985年、吉田義男さんが監督の時以来で、吉田義男さんは、自宅でテレビ観戦していたそうですが、電話でテレビ出演しています。

ちなみに、監督の岡田彰布さんによると、日本シリーズ優勝決定後に最初に自身の携帯電話に連絡をくれたのは、吉田義男さんだったそうで、

岡田彰布さんは、

いやいや、まあ、日本一ていうか、タイガースの歴史からいうともっとなってないといけないと思うんですけど。速攻で一番最初に電話入ってたのが吉田(義男)監督でしたね。監督室に戻った時にね。非常に喜んでました

と、語っています。

お読みいただきありがとうございました

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