1989年、フランスの野球のクラブチームの監督に就任した、吉田義男(よしだ よしお)さんは、1990年からは、フランス・ナショナルチームの指導も始めたそうですが、新しい環境でゼロからチームを作ることの楽しさに夢中になり、気がつくと7年の歳月が経過していたといいます。

「吉田義男はフランスの野球チームの監督に就任していた!」からの続き

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フランス選手には時間厳守の概念がなかった

1989年、フランスの野球のクラブチームの監督に就任した吉田さんは、思考も行動も自己中心的なフランス人に、野球を成り立たせるチームプレーを理解させるのに苦労したそうですが、

なにより、フランス選手たちは、練習開始の時間を誰も守らず、遅れても平然として、言い訳すらしなかったそうで、困ったそうです。

ただ、吉田さんは、投手コーチとして参加してくれた新山彰忠さん(元阪神のコーチ)と二人で、

まあ、今日じゅうに集まってくれたらよしとしようや。郷に入れば郷に従え、やで

と、慰め合い、辛抱強く、異国の習慣に付き合うことにしたのだそうです(笑)

フランス・ナショナルチームの指導も始め、気がつくと7年経っていた

それでも、吉田さんは、翌年1990年からは、正式にフランス・ナショナルチームの指導を始めたそうですが、新しい環境で新しいチームをゼロから作り上げる作業にときめきを覚えていたそうで、

夢中になってフランス・ナショナルチームの後押しをしているうちに、気がつくと7年も経っていたのだそうです。

フランスを五輪には導けなかった

そんな吉田さんは、フランスナショナルチームをヨーロッパ選手権で上位に食い込むまでに育てたそうですが、ヨーロッパでは、イタリアやオランダが強く、フランス代表を目標にしていた五輪(1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ)に連れて行くことはできなかったそうです。

それでも、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、

まったく違う角度から野球に取り組めたことで、新しい発見もあり、大変勉強になった。

と、綴っています。

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イギリス遠征時に後の皇后・小和田雅子と出会っていた

ちなみに、吉田さんは、フランス野球で色々な国へ遠征したそうですが、イギリス・ロンドンに行った際、ピカデリーのオープンカフェでお茶をしていると、若い日本人男女のグループ(外務省の海外研修生)から声をかけられたそうで、野球の話で盛り上がり、写真を撮って住所を交換して別れたそうですが、

後日、達筆な手紙と写真が届くと、署名には「小和田雅子」とあったそうで、後に皇后になる雅子さんと出会っていたのだそうです。

(雅子さんは、この時、グループの幹事役をされていたのだそうですが、とても控えめな方だったそうです)

「吉田義男は阪神からの3度目の監督オファーを一旦は辞退していた!」に続く

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