阪神では9年間で、最多勝2回、奪三振王6回などの活躍で159勝をあげるも、1975年のシーズン終了後には、週刊誌の記事で、南海にトレードさせられることを知ったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、引退することも考えたそうですが、南海の野村克也監督から誘われ会食すると、野村さんに惹かれ始めていく自分を感じたといいます。
「江夏豊が阪神から放出された理由とは?」からの続き
南海ホークスの野村克也監督から食事に誘われていた
1975年のシーズン終了後、なかなか、阪神球団から契約交渉の連絡がないまま、週刊誌で南海へのトレード話を知り、気持ちにポッカリと穴が開いていたという江夏さんですが、
(阪神には、大きくしてもらい、良い思いをさせてもらったという感謝はあるものの、阪神のやり方には納得がいかないことも多かったほか、人間関係に疲れ切っていたため、「野球はもういいかな」と引退を考えていたといいます)
そんな中、知り合いのスポーツ紙の記者から、
野村(克也)さんが一回食事をしようと言ってますが
と、連絡があったそうで、
江夏さんは、この申し出を受け、大阪のプラザホテルで、(トレード先だと言われていた)南海の野村克也監督と会食したそうです。
(南海の野村克也監督とは、同じ関西にいて、知らぬ仲ではなかったそうです)
野村克也監督は会食の席でひたすら野球の話をしていた
そんな江夏さんは、
野村監督から、
是非、南海に来てくれ。一緒に野球をやろうや
という言葉を期待していたそうですが・・・
野村さんは、出てきた料理に箸もつけずに、ひたすら野球の話をしていたそうで、
江夏さんは、
変なおっさんだなあ
と、思いながら聞いていたのだそうです。
野村克也監督は配球の意図をすべて理解してくれていた
すると、やがて、前年(1974年)のシーズン終盤に、江夏さんが甲子園で広島に勝った試合の話になったそうで、
(この年は、広島が快進撃を続けており、阪神は地元甲子園でも負け続けていたそうですが、この日は、江夏さんが先発完投して5対3でやっと勝った試合だったそうです)
この試合で、江夏さんは、2死満塁のピンチ、フルカウントから、内角高めにボールになる球を投げ、空振り三振に打ち取っているのですが、
(相手バッターの心理を考えると、ボール球でも絶対に振ると確信しての配球だったそうです)
野村監督は、たまたまこのシーンをテレビで見ていたそうで、
おまえ、あの場面。意識してボール球を放ったやろ
と、言ったのだそうです。
野村克也監督に惹かれ始めていた
これに、江夏さんは、
このおっさん、えらいところから切り込んできたな
と、驚いたそうですが、
ここまで見てくれている人がいたことが嬉しく、この時、すでに、野村監督に惹かれ始めている自分を感じたそうで、
会食は2時間ほどで終わったそうですが、江夏さんは、一人で帰る道すがら、自分の心が変化していくのを感じたのだそうです。
(ちなみに、野村監督は、最後まで、「一緒に野球をやろう」とは言ってくれなかったそうです)
「江夏豊は野村克也監督からリリーフ転向を打診されるも拒否していた!」に続く
南海入団会見時の江夏さん(左)と野村克也監督(右)。