1975年のシーズン終了後、いつまで経っても阪神球団から契約交渉の連絡が入らない中、週刊誌にトレード話を報道され、引退を考えるようになるも、(トレード先だと噂されていた)南海の野村克也監督から会食に誘われ、その会食中に野村監督に惹かれて、南海へのトレードを受け入れ、1976年1月、南海に移籍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、移籍1年目の成績は振るわず、2年目には野村監督にリリーフに転向するように言われたといいます。

「江夏豊が南海の野村克也監督に惹かれた理由とは?」からの続き

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南海移籍1年目は痛めた肩や肘をかばいながらの投球で成績は振るわなかった

1976年1月、南海ホークスに移籍した江夏さんですが、1974年頃から100球を超えるとしびれてきたという右肘は相変わらずで、ありとあらゆる治療法を試みるも、多少は症状が緩和するものの、完治には至らなかったそうで、

肩や肘をかばいながらの投球では、当然ながら成績は振るわず、移籍1年目の1976年は、先発で起用されるも、6勝12敗に終わります。

野村克也監督からリリーフ転向を勧められるも・・・

そして、2年目も、やはり、成績は振るわず、「もう、江夏は終わった」という周囲の視線を嫌でも感じ、プライドもズタズタになっていたそうですが、そんな時、傷口に塩を塗られるような出来事があったといいます。

(阪神の最後の年(1975年)と南海の1年目(1976年)は投手人生のどん底だったそうです)

それは、近鉄の本拠地である日生球場の左中間あたりでウォーミングアップをしていた時のこと、野村克也監督が近寄って来て、

リリーフやらんか

と、言ってきたそうで、

江夏さんは、

何言っとんの、このおっさん

と、とっさに思ったそうです。

(今でこそ、リリーフはまともな仕事として地位が確立しているものの、当時、投手といえば、先発で完投するのが当たり前の時代だったため、先発させてもらえない投手は二流であり、落ちこぼれを意味していました)

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当時、二流投手の仕事だったリリーフ転向を拒否

また、さらに、野村監督は、

(南海でリリーフを務めていた)佐藤(道郎)は勝ち星をほしがる男だから、性格的にリリーフ向きじゃないんだ

佐藤は先発で勝ち星を稼いでくれる男だから、先発に回したい。するとリリーフでいけるのはおまえしかいないんだ。おまえは長いイニングは無理だけど、リリーフで30、40球ならまだ放れるんだから

と、言ってきたそうですが、

江夏さんは、

だからといって、なんでこの俺がリリーフなのか。まともな投手はきれいなマウンドに上るもの。俺は救援でガタガタになったマウンドに登板する投手じゃないぞ。試合の途中からマウンドに出ていくなんて、他人のふんどしで相撲を取るようなものだ。

と、リリーフに転向することに拒否反応を起こしたのだそうです。

「江夏豊は野村克也からの「革命」という言葉でリリーフに転向していた!」に続く

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