1980年11月、日本ハムファイターズに移籍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、移籍1年目の1981年から、日本ハムのリーグ優勝に貢献し、優勝請負人と称されるのですが、1983年のシーズンオフ、大沢監督が勇退すると、大沢監督からは西武への移籍を勧められたといいます。
「江夏豊は日本ハムの大沢啓二監督を父親のように感じていた!」からの続き
日本ハムのリーグ優勝では大沢啓二監督が喜んでくれることが何よりうれしかった
1981年、日本ハムに移籍した江夏さんは、前期は、調子が上がらず、よく打たれるも、後期になると、本調子となり、後期だけで1勝15セーブを挙げ、前後期合わせて25セーブでセーブ王のタイトルを獲得するなど、リリーフエースとして、日本ハムのリーグ優勝に貢献しているのですが、
(江夏さんは、広島時代から3年連続のセーブ王、かつ、この優勝でパ・リーグの最優秀選手(MVP)に輝いているのですが、これは、広島時代の1979年と合わせ、史上初の両リーグ受賞となっています)
ビールかけでは、お父さんのように思っていた大沢監督が、一斗樽(いっとだる)にお尻を突っ込むなど、選手の誰よりもはしゃいで喜んでいたそうで、それが何よりもうれしかったそうです。
大沢啓二監督が監督を勇退しフロント入りするとお前も辞めろと言われていた
ただ、1983年のシーズンが終わると、そんな大沢監督が、監督を勇退し、フロント入りすることになったことから、江夏さんが、お礼を兼ねて、大沢監督の家に挨拶に行くと、
大沢監督は、
おお、ちょうどよかった
お前を広島から取ったのは俺だ。俺が辞めるんだから、おまえも辞めろ
おまえの次の就職先は俺が見つけてやる
と、とんでもないことを言ったのだそうです。
大沢啓二監督にトレードを勧められていた
ちなみに、江夏さんは、このまま、日本ハムで投げ続けようと思っていたことから、一瞬、意味が分からなかったそうですが、
3年間の付き合いの中で自分の性格をつかんでくれているであろう大沢監督は、(自身が監督のままならともかく)新しい体制のもとで江夏が力を出せるのか、逆に、江夏がいたら、新監督の植村義信監督がやりにくくないだろうかなど考えた結果、トレードという結論に至ったのだろうと、理解したのだそうです。
大沢啓二監督に勧められた西武は行きたくない球団の一つだった
そこで、江夏さんは、行きたくない球団があったため、その球団を、巨人、阪神、広島、西武と挙げ(つまり、強い球団)、
強いところで投げるよりも、強いチームを相手に投げて、倒したいんだ
と、訴えたそうですが・・・
大沢監督が世話をしてくれた移籍先は、よりによって、西武だったそうです。
(大沢監督によると、江夏さんに移籍を薦めた際には、すでに西武から申し入れがあったそうで、きっちりした規律のもとで動いていた(いわゆる管理野球)広岡達朗監督の野球を知ることは江夏さんのためになると考え、西武行きを薦めたのだそうです)
とはいえ、江夏さんは、広岡監督による西武のバント攻めに遭い、屈したことがあり、この経験から広岡野球を高く評価していたそうですが・・・
(広岡監督は、江夏さんの弱点が守備にあると見抜き、チーム一丸でバント練習に取り組んだそうです)
「江夏豊は西武では広岡達朗監督に嫌われ二軍に落とされていた!」に続く