野村克也監督から「革命を起こさないか」と、リリーフ転向を勧められ、リリーフに転向した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、当初は、周囲の理解のない中、毎日ベンチ入りするための調整方法に苦労するも、やがては自分なりの調整方法を見つけ、パ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得します。

「江夏豊は野村克也からの「革命」という言葉でリリーフに転向していた!」からの続き

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リリーフ転向も調整方法が理解されず周囲の目に苦労していた

1977年、リリーフに転向した江夏さんは、毎日ベンチ入りするための調整方法などは野村監督から任せられていたそうで、

試行錯誤しているうちに、(腰痛持ちだったことから)1回からベンチで試合を見て途中からブルペンで準備をするという従来のやり方では、体がもたないことが分かり、5回くらいまではベンチ裏でのんびりし、6回くらいから体を動かすという、自分なりの調整方法を見つけたそうですが、

今では常識となっているこのリリーフの調整方法も、当時はわがままなやり方と見られていたそうで、当初は、理解のない周囲の目が辛かったそうです。

(野村監督は、調整方法を江夏さんに任せていることをみなに通達してくれておらず、チームの長老格の広瀬叔功さんに、5回までベンチにいるよう叱られたこともあったそうで、江夏さんは広瀬さんを信頼し慕っていただけに、理解してもらえないことがとてもショックだったそうです)

リリーフ転向後すぐにセーブ王(最多セーブ)のタイトルを獲得

それでも、そんな甲斐あり、江夏さんは、1977年8月4日の阪急(現・オリックス)戦から15日の同カードまで、当時の新記録となる6試合連続セーブをマークすると、最終的には、それまでのリーグ記録だった17セーブを更新する19セーブ(4勝2敗19セーブ)でパ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得したそうで、

投手人生の盛りを過ぎ、120球、130球を投げて完投するのは無理でも、30、40球なら生きた球を投げることができる自分には、リリーフという役割が合っていると実感したのだそうです。

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野村克也監督が解任されたことに追随して広島東洋カープに移籍

こうして、江夏さんの、第2の投手人生が始まったかと思われたのですが・・・

第2の投手人生を与えてくれた大恩人である野村監督が、この年1977年限りで解任され、退団が決定してしまいます。

そこで、江夏さんも、野村監督に追随する道を選んで、球団に反旗を翻し、同年12月22日は、金銭トレードで広島東洋カープに移籍したのでした。

(ちなみに、野村監督の解任理由は、「公私混同」(夫人の野村沙知代さんがしばしば球場に来てチームの運営に口を出していたとされています)で、マスコミも、沙知代夫人が監督室に堂々と出入りしていると書きたてたそうですが、江夏さんは、沙知代夫人が監督室に入るところを一度も見たことがなかったそうで、野村監督を排除したい誰かが意図的に流した噂と思っているそうです)

「江夏豊は広島移籍後は衰えていた球の勢いが回復していた!」に続く

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