広島移籍2年目の1979年、伝説の「21球」等で、広島のリーグ優勝&日本一に大きく貢献した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、移籍3年目の1980年も、前年同様、広島のリーグ優勝&日本一に貢献するのですが、同年のシーズンオフ、日本ハムファイターズの大沢啓二監督に呼ばれる形で、高橋直樹さんとのトレードで日本ハムファイターズへ移籍すると、大沢監督を父親のように感じるようになったといいます。

「江夏豊は「21球」の直前に味方ベンチにブチ切れしかけていた!」からの続き

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古葉監督の勧めで日本ハムファイターズへ移籍

1979年、9勝5敗22セーブで、広島のリーグ優勝&日本一に大きく貢献した江夏さんは、1980年も、9勝6敗21セーブの活躍で、広島のリーグ連覇と2年連続日本一に貢献するのですが、

古葉竹識監督から、

今ならどこでも通用する。今なら商品として高く売れるんだ。このままカープにおっても、力があるうちはいいが、衰えてきたらどうにもならんぞ

と、移籍を勧められたそうで、

やがて、古葉監督の後、山本浩二選手らが引っ張る時代が来た時、自分がいてはやりづらいだろうと思っていた江夏さんは、

(広島という街も大好きで、古葉監督にも感謝していたそうですが、自分のような外様が骨をうずめる場所ではないとも思ったそうです)

同年11月10日、日本ハムファイターズの大沢啓二監督に呼ばれる形で、高橋直樹さんとのトレードで日本ハムファイターズへ移籍します。

(当時、2シーズン制だったパ・リーグで、日本ハムは優勝を争いながらも、終盤の競り合いに弱く、1点差でゲームを落とし、あと一歩のところで優勝を逃していたそうで、大沢監督は、弱点克服の切り札として、江夏さんを呼び寄せたのだそうです)


日本ハム入団会見より。(左から)大社オーナー、大沢監督、江夏さん。

当初は大沢啓二監督をひどい監督だと思っていたが・・・

そんな江夏さんですが、日本ハムに移籍すると、まず、大沢啓二監督のことを、「なんてひどい監督なんだろう」と思ったそうです。

というのも、大沢監督は、べらんめえ調で口が悪く、何かあるとすぐに選手を蹴飛ばしていたほか、野球の技術を指導しているところなど、見たことがなかったからなのですが、

(これでよく選手が我慢しているなと思ったそうです)

選手たちはというと、文句を言うどころか、大沢監督のことを「親分」と言って慕っていたのだそうです。

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大沢啓二監督に父親のような温かさを感じていた

ただ、そのうち、その訳が分かってきたそうで、江夏さんは、シーズン当初は調子が上がらず、よく打たれたそうですが、大沢監督は江夏さんを一切責めず、マスコミにも愚痴一つこぼさず、「使った俺が悪い」とかばい続けてくれたほか、

関西遠征の最終日、大阪球場での試合前、江夏さんがたまたまロッカーの前を通りかかると、

大沢監督が、打撃投手ら裏方さん3人くらいに、

あしたは東京に帰る、1週間ご苦労さんだった

これで子供さんに何か買ってやれ、奥さんに甘いものでも買ってやれ

と言って、小遣いを渡していたそうで、

キャンプの終わりなどに、球団や選手会が裏方さんを慰労することはあっても、監督個人がここまで気配りしている姿を見たことがなかった江夏さんは、

こんなに温かい人だったんだ

と、体の芯がカーっと熱くなったそうで、

江夏さんは、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)」で、

大沢さんというおやじがいて、選手が父と慕う家庭。その温かさは母子家庭で暮らした自分の知らないものだった。  

自分にはおやじはいないものと思って生きてきたが、心のどこかではそういう存在を求めていたのだろう。ああ、俺にもこんな父親がいたらなあ、と思ううちに、大沢啓二という人間に完全にほれ込んでいた。

と、綴っています。

「江夏豊は大沢啓二監督が勇退するとき西武移籍を勧められていた!」に続く


燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)


大沢監督(左)と江夏さん(右)。

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