金田正泰監督に頼まれて付き合った永平寺の修行中、金田監督がトイレ掃除などをサボっているのを見て、不信感を抱き始めたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、今回は、二度の「金田監督殴打事件」のうち、二度目の「金田監督殴打事件」を、江夏さんの証言を交えながらご紹介します。

「江夏豊は鈴木皖武による金田正泰監督殴打事件をセッティングしていた?」からの続き

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金田監督殴打事件は金田監督の暴言が原因だった

「金田監督殴打事件」と言っても、金田監督は、殴った方ではなく殴られた側で、一度目は、1973年8月6日、金田監督の暴言に対し、腹に据えかねた鈴木皖武さんが金田監督を殴っているのですが、

二度目もやはり、金田監督の暴言に対し、腹に据えかねた権藤正利さんが金田監督を殴ったといいます。

権藤正利は金田監督から「サル」とからかわれていた

実は、1973年、広島遠征中のこと、その日はナイターだったため、夕方頃まで空き時間があり、選手たちはみな自由にしていたそうで、

プロ入り21年目のベテラン投手だった権藤正利さんも、好きなパチンコに行くと、この日は大勝ちし、景品を手に、宿舎である吉川旅館に戻ってきたそうです。

(吉川旅館の1階の喫茶店では、金田監督と青田昇さんがお茶をしており、江夏さんはそこから少し離れた所にいたそうです)

そこで、江夏さんが、「ゴンさん、おかえり」と、挨拶すると、権藤さんは、(二人とも同じタバコを吸っていたため)「豊、後で持っていくからなぁ」と、言いながら、エレベーターに乗ろうとしたそうですが、

ちょうどその時、

金田監督が、

サルでもタバコ吸うんか

と、からかったそうで、

その瞬間、権藤さんの顔は真っ青になったそうです。

権藤正利は「勤続20年選手表彰」の栄誉を捨ててまで金田監督を殴打していた

その後、江夏さんは、権藤さんから、「もう我慢ならない。やる」って相談を受けたそうですが、もう止めても無駄と感じたことから、「一緒にいるから好きなようにやってください」と答えたそうで、

シーズン終了後の11月23日、阪神のファン感謝デー終了後、監督室の扉を叩いて、ゴンさんと金田監督を二人きりにして話をさせると、

権藤さんは、金田監督に暴言に対する謝罪を求めたそうですが、金田監督は拒否したそうで、権藤さんは金田監督を殴打したのだそうです。

(江夏さんは、ドアの前で立って見張りをしていたそうですが、金田監督の「助けてくれー」という悲鳴が聞こえたそうです)

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裏で糸を引いた訳ではなかった

ちなみに、江夏さんは、この殴打事件について、著書「燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)」で、

権藤さんなどはちょうど現役最後の年で、そのままおとなしくしていれば「勤続二十年」の連盟表彰を受けて、めでたく引退となっていたのに、その栄誉もかなぐり捨てて報復に走ったのだから、どれほどの怒りだったことか。

二人(鈴木さんと権藤さん)とも、監督と二人きりになる場を設けたのはこの自分だ。二度の殴打事件はともに「江夏が裏で糸を引いているのでは」とも言われた。それは違うが、自分自身、金田さんから気持ちが離れていたのは確かだ。

と、綴っています。

(ちなみに、権藤さんは、リーグからは厳重戒告処分、球団からは謹慎処分が下されたのですが、すでに引退を決意していたため、1973年12月12日に球団から自由契約を通告されて退団しています)

「江夏豊は阪神から南海へのトレードを報道で知らされていた!」に続く


燃えよ左腕 江夏豊という人生(日本経済新聞出版)

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