1987年、開幕から黒星地獄で、結局、浮上できぬまま最下位に沈み、監督を解任された、吉田義男(よしだ よしお)さんは、しばらくは野球を離れてのんびり過ごしたいと考えていたそうですが、そんな中、フランスチームの監督を依頼され、お世話になった野球でスポーツ推進に貢献したいとの思いから、この申し出を快諾したといいます。

「吉田義男は1987年に最下位となり阪神監督を解任されていた!」からの続き

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日立フランスの社長・浦田良一にフランス野球を見ることを勧められていた

1987年、3年間務めた阪神の監督を退任した吉田さんは、天国(リーグ優勝&日本一)も地獄(最下位)も見たのだから、もうこれでいいだろうと、とりあえず、野球を離れ、疲れ切った心身をリフレッシュさせたかったそうですが、

そんな中、1987年の暮れ、アメリカでお世話になったという山崎茂樹さんに、日立フランスの社長・浦田良一さんを紹介され、京都で会食すると、

その席で浦田さんに、

吉田さん、フランスでも野球をやっているのをご存知ですか。一度、旅行がてら、のぞいてみたらどうです?

と、誘われたそうです。

(山崎さんと浦田さんは大阪・市岡高校の同級生だったそうです)

日立フランスの社長・浦田良一から依頼されフランスチームの監督に就任していた

そこで、吉田さんは、1988年、奥さんとヨーロッパ旅行を楽しんだ際、軽い気持ちでフランス野球連盟を訪ね、パリの東南部ヴァンセンヌの森にある体育専門学校の野球場でクラブチームの練習を見せてもらうと、翌年の1989年、浦田さんから連絡があり、フランス野球のために一肌脱いでほしいと言われたそうで、

(フランスは、バルセロナ、アトランタ五輪に向けて野球を強化していたそうですが、日本の高校野球程度のレベルだったそうです)

世界中で、サッカーをやっている国・地域は204ある。野球は112か国・地域で、約半分しかない。競技人口を比べたら、差はさらに広がり、100倍くらいの違いがあるのではないか。

日本のプロ野球を卒業した私が、お世話になった野球というスポーツ振興のために、一肌脱ぐのもいいかもしれない

と、思い、1989年からフランス・クラブチームを、1990年からはフランス・ナショナルチームを指導することになったのだそうです。

(中途半端ではなく、本腰を入れて取り組むため、拠点を確保しようと、1989年の暮れには、パリに小さなアパートを買ったのだそうです)

個人主義のフランス人にチームプレーを理解させることは大変だった

ただ、思考も行動も自己中心的なフランス人に、野球を成り立たせるチームプレーを理解させるのはかなり大変だったそうで、

(浦田さんからも事前に「(フランスで)全員まとまった練習をやるのは難しい」と忠告されていたそうです)

野球を見て学ぶ機会がないフランス人たちには、連携プレーやバントの意味を最初から説明しなければならなかったそうです。

(打者は、遠くへ飛ばすことしか考えておらず、そろってアッパースイング、野手はかっこよくシングルハンドでしか捕球しなかったそうです)

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ノックによってフランス選手たちとのコミュニケーションに成功していた

そこで、吉田さんが、(言葉が分からなかったこともあり)ノックバットでコミュニケーションをとることにしようと、捕れないところへ球を打ったり、ギリギリ捕れるところへ球を打ったりし、ノックを打ち分けて見せると、

フランス選手たちは興味を持ってくれるようになったほか、ゴロ一つで2アウトを取る併殺にも興味を示したそうで、吉田さんが、グラブをはめて、ダブルプレーのコツを実演してみせると、オーッとため息が漏れたそうで、

こうして指導していくうちに、ダブルプレーの楽しさや、送りバントなど自己犠牲の重要性、バットは水平に、あるいは上から叩きつけるダウンスイングの方が強い打球が飛ぶ、ということなどが分かってもらえるようになったのだそうです。

(ちなみに、新山彰忠コーチ(元阪神コーチ)も1日500球くらい打ちやすい球を投げたそうで、フランス選手たちからは神様のように感謝されたそうです)

「吉田義男は7年間フランスの野球チームを指導していた!」に続く

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