「針の穴をも通す」「精密機械」と言われた抜群の制球力で、エースとして活躍していた、小山正明(こやま まさあき)さんですが、1962年9月6日、試合前にキャッチボールをしていた際、暴投して三宅秀史選手の左目に大ケガを負わせたといいます。

「小山正明は王貞治を抑える為にパームボールの練習をしていた!」からの続き

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キャッチボールで暴投し三宅秀史の左目に大ケガを負わせていた

1962年9月6日、大洋(現・横浜DeNAベイスターズ)戦の試合前、先発予定だった小山さんは、川崎球場のセンター側でキャッチボール(遠投)をしていたそうですが、

ランニングをしていた対戦相手の大洋の選手たちが、小山さんの後ろを通りかかった際、小山さんに話しかけたことから、小山は後ろを振り返って受け答えしながらキャッチボールを続けていたそうで、

きちんと前を見ずに投げていたせいか、そのうち、小山さんの投げた球が、レフト側で安藤統男さんとキャッチボールをしていた三宅秀史選手にまっすぐ向って飛んでいってしまったそうで、小山さんのすぐ後ろにいた大洋の選手が、大きな声で「危ない!」と叫んだそうですが、

その声で、三宅選手は反射的に声のする方向(小山さんの方)を見てしまい、自分めがけて飛んできた球に正対して、球が左目に直撃してしまったのだそうです。

(三宅さんはその場に倒れて、すぐに病院に運ばれて緊急入院したそうですが、虹彩分離の重傷を負ったそうです)

落ち込むも青田昇コーチらに励まされ予定通り先発すると完封勝利していた

そんな状況に、小山さんは、試合前、

秀さん(三宅さんの愛称)、大丈夫やろか、ワシはもうアカン。もう野球をやるのが嫌になった

と、うなだれていたそうですが、

藤本定義監督には、予定通り、先発を告げられ、

ヘッド格の青田昇コーチにも、

なあ、小山。この試合は勝つんや。三宅の分まで頑張って勝利投手になるんや。そうすれば三宅が喜ぶんだぞ

と、言われ、先発すると、

5安打10奪三振で、この年10度目となる完封勝ちをしたそうですが、ヒーローインタビューは、「これから病院に見舞いに行く」と言って拒否。

ただ、試合が終了したのが午後9時47分で、面会時間が午後10時までと聞き、断念したのだそうです。

(この年、小山さんは、27勝を挙げるほか、リーグ最多の13完封(現在もセ・リーグ記録)を記録し、阪神タイガースの優勝に大きく貢献しました)

三宅秀史はこのケガが原因で以降目立った活躍ができず現役を引退していた

その後、三宅さんは復帰を果たすも、1.5あった視力は0.1にまで低下してしまい、それまで、正三塁手として活躍し、抜群の守備範囲で、遊撃手の吉田義男選手、二塁手の鎌田実選手とともに「プロ野球史上最高の内野陣」「黄金の内野陣」などと称されるほか、プロ野球記録の882試合連続出場と700試合連続フルイニング出場(1957年7月15日~1962年9月5日)を続ける、元祖鉄人でもあったのですが、

(700試合連続フルイニング出場は、2004年に金本知憲さんに破られるまでプロ野球記録だったそうです)

このケガで出場(記録)がストップしてしまったうえ、事実上、野球生命を絶たれてしまったそうで、以降、目立った活躍はできず、黙々と努力するものの、1967年には、やむなく現役を引退したそうです。

(当時、三宅さんのライバルと言われていた巨人の長嶋茂雄さんは、「(打席に立つたび)三宅さんの目を見ると胸がはりさけそうだった」と言っています)

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三宅秀史の訃報に対する小山正明のコメント

ちなみに、三宅さんは、2021年3月3日、心不全のため、86歳で他界されているのですが、

小山さんは、

三宅は私と同じ昭和28年(1953年)入団で、同い年。最初は目立たん存在やった。でも守りがうまくて、足も速くてねえ。3年目ぐらいにはサードのレギュラーになった。

決して派手ではないけど、三塁の守備は完璧やった。何度も助けられた。よっさん(吉田義男氏)との三遊間コンビは鉄壁で、巨人の長嶋-広岡コンビより一枚上やったね。

今でも思い出すのは川崎球場(1962年9月6日)での試合前練習のこと。私が遠投したボールが三宅の目に当たってしまった。もちろん狙って当てたわけじゃないけど、今でも非常に申し訳ないと思ってる。

つい最近、あいつ今ごろ何しとんやろなあと思ってたんや。同世代がみんな亡くなっていくなあ。寂しい限りや。

と、コメントしています。

「小山正明がMVPに選ばれなかった理由が酷すぎる!」に続く

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