1936年、大阪(阪神)タイガースに入団すると、同年秋にはいきなり本塁打王、1944年、1947年~1949年には打点王、1949年には46本塁打で再び本塁打王、1950年には打率3割6分2厘で首位打者(当時の日本記録191安打)を獲得するなど、輝かしい成績を収めた、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんですが、やはり、少年時代から頭角を現していたといいます。

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年齢は?出身は?身長は?弟は?

藤村さんは、1916年8月14日生まれ、
広島県呉市山手町出身の出身、

身長173センチ、
体重79キロ、

血液型はO型、

学歴は、
二河小学校(尋常小学校1~6年・高等小学校1~2年)
⇒大正中学校(※1933年に呉港中学校と改称)
⇒呉港高等学校卒業(※1948年の学制改革によって新制呉港高等学校に改称)

趣味は、
映画、釣り、麻雀、競馬

ちなみに、藤村さんは、お酒は弱く、大の甘党(特にアンパンと炭酸飲料が好物)だったそうで、松木謙治郎監督は、著書「タイガースの生い立ち―阪神球団史」で、藤村さんは現役時代、「いつもサイダーばかり飲んでいた」と綴っています。

また、弟の藤村隆男さんも、同じくプロ野球選手(投手)で、大阪(阪神)タイガースで共にプレーをしました。

小学校入学後に野球を始める

藤村さんは、呉海軍工廠(軍隊直属の軍需工場のこと)の工員だったお父さんのもと、8人兄弟姉妹(4男4女)の7番目(3男)として誕生すると、当時は野球が盛んだったことから、藤村さんも二河小学校に入学後、野球を始めたそうです。

(お兄さんも、海軍工廠野球チームの花形選手だったそうです)

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中学卒業後は就職するつもりも勧誘されて高校に進学していた

そんな藤村さんは、尋常小学校卒業後、高等小学校で2年学び、1931年、14歳の時、高等小学校を卒業すると、お父さんやお兄さんが勤める呉工廠に就職するつもりだったそうですが、同年、私学の大正中学校(5年制で、後の呉港高等学校)に勧誘され、進学したのだそうです。

(勧誘された理由は不明ですが、昭和初期の地元紙「中国新聞」には、社会人、中等学校、小学校まで野球の試合結果がびっしりと掲載されており、その中に藤村さんの名前が度々出てきていたことから、この頃からすでに野球で頭角を現していたようです)

「藤村富美男は高校の時4番エースで甲子園の申し子と呼ばれていた!」に続く

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