1953年、阪神タイガースに入団すると、小柄な体が宙を舞うような華麗で確かな遊撃守備で、「史上最高の名遊撃手」「牛若丸」などと称された、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、そんな吉田さんの奥さんとの馴れ初めなどをご紹介します。
「吉田義男が24年間で唯一の退場処分を受けた理由が酷い!」からの続き
妻・篤子との馴れ初めは?
吉田さんは、プロ入り5年目の1957年12月、24歳の時、篤子さん(21歳)と結婚しています。
篤子さんとは、山城高校の応援団長で1歳年上の先輩・高田昌彦さんの紹介で知り合ったそうで(篤子さんはまだ高校2年生だったそうです)、学習院大学へ進学した高田さんは、吉田さんの東京遠征のたびに、宿泊している後楽園の宿舎・清水旅館に来て、「いとこの家へメシを食いに行こう」と誘ってくれたそうです。
ただ、吉田さんは、篤子さんの両親がまだ若い娘が遠くへ嫁ぐことをどう受け止めたか分からず、反対されるのを覚悟していたそうですが、両親は驚きつつも、結婚を許してくれたそうで、阪神・野田誠三オーナー夫婦の媒酌で平安神宮で結婚式(阪神ナインや知人、学友が多数参列)を挙げたのだそうです。(披露宴は京都・都ホテル)
大阪・阪急今津線の甲東園にある住宅街に新居
そんな吉田さんは、新居を大阪・阪急今津線の甲東園にある住宅街に構えたそうですが、
そこは、阪急と大同生命が共同開発した40区画の住宅の一つだったそうで、240万円で購入すると、100万円を契約金の一部で支払い、残りを20年ローンにしたのだそうです。
(その頃は、牛がスキを引いて水田を耕していたことから、新居の窓を開けると「モー」と牛の鳴き声が聞こえたほか、いちご畑があったり、小川にはドジョウやホタルがいるなど、のどかな場所だったそうです)
妻・篤子は東京のお嬢様育ちだったため関西に馴染むのに苦労していた
ちなみに、篤子さんは、巣鴨学園の遠藤健吉校長の長女(2人姉妹)で、東京生まれ、東京育ちだったため、速射砲のような関西弁になかなか馴染めなかったほか、近所の子供に「おばちゃん」と呼ばれて驚き、「アホか」というおじさんたちのジョークのニュアンスも、なかなか理解できず、苦しんだそうです。
(東京六大学野球のファンだったそうですが、まさか、自分がプロ野球選手と結婚するとは思ってもみなかったそうです)
また、経済的に安定した家庭で育った篤子さんにとって、成績によってお給料が激減することもある、プロ野球選手という夫の職業には、かなり不安を覚えていそうですが、愚痴一つ言わず、黙って耐えてくれたそうで、
吉田さんは、そんな篤子さんのことを、著書「牛若丸の履歴書」で、
食生活が安定したのは、なによりもありがたかった。肩を痛めた時には、こんにゃくを温めて患部に当てたり、毛糸の肩当てを作ってくれたりした。
と、綴っています。
吉田義男の阪神監督時代には妻・篤子はストレスから胃潰瘍を患ったことがあった
また、選手時代はまだ良かったものの、吉田さんが阪神の監督になってからは、心ないファンがしょっちゅう自宅に電話をかけてきて、吉田さんの采配について、「何であそこでピッチャー代えるんや」などと怒鳴ったそうで、
(吉田さんが遠征で不在の時は、篤子さんがすべて対応していたそうです)
特に、最初に監督を務めた1975年からの3年間は、細い体に似合わず気丈な篤子さんも、ついに胃潰瘍を患ってしまったそうです。
現在は妻・篤子とともに兵庫県宝塚市に在住
その後、吉田さんは、篤子さんとともに兵庫県宝塚市に移り住んだそうですが、
吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、
いろいろと起伏はあったが、関西暮らしは東京時代よりはるかに長い50年に及んだ。
と、綴っているほか、
2018年のインタビューでは、
幸い、お互い健康ですけど、行動範囲は狭くなってきましたね。昔は家のことは何にもしなかったけど、妻が足を痛めた時なんかは、僕がごみ出しなどをするようになった。支え合っていかなあかんと思ってます。
と、語っています。
子供は娘が2人
そんな吉田さんと篤子さんの間には、2人の女の子が誕生しており、長女は智子さん、次女は範子さんというそうで、智子さんは東京、範子さんは横浜に住み、それぞれ男の子が2人いるそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
吉田義男さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?学歴は?本名は?
- 「牛若丸」の由来は?
- 父親・正三郎は薪炭業を営んでいた
- 少年時代からすばしっこく運動会で活躍していた
- 11歳の時に母親の従兄弟の家に疎開していた
- 疎開先では「都会人」と言われ、疎まれ早く実家に帰りたかった
- 長姉・芳子が母親代わりとなって世話をしてくれていた
- 大阪や兵庫県尼崎が空襲に遭うと異様な黒煙が上空を漂っていた
- 戦後は食糧難だった
- 小学生の頃から野球に夢中だった
- 中学で野球部に入部すると球拾いばかりも辛いと思ったことはなかった
- 野球が嫌いだった父親にはよく小言を言われていた
- 母親はいつも味方になってくれていた
- 旧制京都市立第二商業学校は野球の強豪校だった
- 旧制京都市立第二商業学校は決勝戦で敗退していた
- 補欠は米を調達して宿舎に運ぶことが仕事だった
- 中学では著名な指導者を招いて技術指導を受けていた
- 天知俊一(後の中日の監督)から遊撃手の守備を褒められますますやる気になっていた
- 学校改革で京二商のクラスメイトと離れ離れになっていた
- 高校1年生の時に父と母が相次いで他界
- 2つ上の兄・正雄が一家の大黒柱となり野球を続けさせてくれた
- 父親代わりに働いてくれた兄・正雄も43歳の若さで他界
- 山城高校野球部は当初は監督がおらず設備も手作りしていた
- 監督も自分たちで探していた
- 監督を引き受けてくれた後栄治は素晴らしい指導者だった
- 高校2年生の時に夏の甲子園に出場
- 夏の甲子園では初戦(北海高校戦)で敗退
- 各地の招待試合では観客から熱狂的に迎えられていた
- 高3の時には主将で4番を任されるも向いていないと思っていた
- 高3の時は京都大会決勝戦で平安高校戦に敗退
- 洛北高校戦で牽制で刺した2塁走者は後に鹿島建設専務になっていた
- 阪急の西村正夫助監督からスカウトされるもプロで通用するとは思えず断っていた
- 身長156センチの阪急・浜崎真二監督に「あんなチビはいらん」と言われていた?
- 獺口明監督の口利きで同志社大学への進学が決まるも・・・
- 同志社大学進学が決まっていた中、立命館大学野球部に授業料免除の条件で誘われ立命館大学に進学
- 立命館大学野球部から勧誘役を託されていた永田郁二に有無も言えなかった
- 立命館大学野球部のマネージャー八谷平吉に同志社大学へのケアもしてもらっていた
- 広岡達朗とはお互い意識し合っていた
- 併殺に仕留めたはずが広岡達朗はトップスピードのままスライディングしてきた
- 広岡達朗のスライディングをきっかけに相手に隙を見せないプレーを心がけるようになった
- 広岡達朗とは現在も親しく会話
- 物心ついた時から阪神(大阪)タイガースの大ファンだった
- スポーツニッポン紙で阪神(大阪)タイガース勝敗を確かめるのが楽しみだった
- 大学1年生の時に憧れの阪神からスカウトされる
- 阪神(大阪)タイガースは内定していた松本豊の入団がポシャり急遽代わりの遊撃手が欲しかった
- 藤村富美男と金田正泰がプロで十分やれると言っていると聞きその気になっていた
- 親会社が阪神電鉄のため野球選手を辞めた後も食いっぱぐれはないと思っていた
- 実は藤村富美男と金田正泰は吉田義男を体の小さいマネージャーが入団したと思っていた
- 契約金50万円は当時の大卒の初任給と比べ破格だった
- 契約金50万円のうち10万円は兄に渡し、残り40万円は貯金していた
- 阪神タイガース入団にあたり立命館大を1年で中退することを野球関係者から反対されていた
- 甲子園の一次キャンプではノックの名手・岡田源三郎の凄まじいノックに必死に食らいついていた
- ノックの名手・岡田源三郎に守備を絶賛されていた
- 岡田源三郎コーチにイレギュラーのゴロを捕るための特訓をしてもらっていた
- 小柄な身体の生かし、スピードあるプレーを目指した
- 捕球と送球をいかに瞬時に行えるかをテーマとしていた
- 打球をグラブに収めると同時に右手でボールを握るタイミングを試行錯誤していた
- いかに送球動作に移りやすい体勢で捕球するかに心を砕いていた
- 新人でただ1人、鴨池キャンプのメンバーに選ばれていた
- ルーキーで正遊撃手になっていた
- よく失策をし投手に怒鳴られていた
- 藤村隆男投手がミスに一番厳しかった
- 難しいゴロをさばき「牛若丸」と呼ばれるも軽率なところがあった
- 新人の時には内野手はベテランばかりだった
- 藤村富美男は送球が少しでもそれると捕球してくれなかった
- 藤村富美男にはバッテイングをアドバイスされたほか精神面でも大きな影響を受けていた
- エラーが続いても松木謙治郎監督は遊撃手として使い続けてくれた
- 身体を大きくするため好き嫌いなく食べるほか「ウサギ跳び」「階段上り」を繰り返しやっていた
- 苦しくなってからが本当の練習だと思って練習していた
- プロ入り2年目も松木謙治郎監督に使い続けられていた
- 松木謙治郎監督の方針で「走る野球」が浸透していたため失敗を恐れず走ることができた
- 松木謙治郎監督には自由にのびのびと育てられていた
- プロ入り3年目でベストナインに選出される
- ヤンキースのプレーは恐怖を感じるほど凄まじかった
- ヤンキースのプレーを見て「可能な限り素早く送球すること」の大事さを確信していた
- 「アウトスタンディング・プレイヤー(最も傑出した選手)」に選ばれていた
- 1950~1960年代には「黄金の内野陣」と呼ばれていた
- 三塁手の三宅秀史の守備は巨人の水原茂監督に絶賛されていた
- 二塁手の鎌田実は「バックハンド・トス」の名人だった
- 鎌田実のどんなプレーも受け止められるように心がけていた
- 高校時代はピッチャーに憧れていた時期があった
- 華麗な「併殺」で主役の投手を食えることに魅力を感じていた
- 一塁手の遠井吾郎に「もっとゆっくり投げて欲しい」と頼まれていた
- 本塁刺殺だと思われていた場面で併殺を完成させていた
- ダイレクトでも捕球できる打球をわざとショートバウンドで処理し併殺を完成させていた
- 日頃から出来ないものかと思い描いていた併殺を実現していた
- 5年連続で打撃ベストテン入り
- 夏場まで3割キープも終盤にかけて打率を下げていた
- プロ8年目に打撃成績が急落
- キャリア最低打率だった9年目のオフに大徳寺に修行に行っていた
- 大徳寺での修行は厳しかった
- 修行に励むうちにエネルギーが身体の底から沸き上がっていた
- 安藤統男の入団で安泰だった遊撃レギュラーの座が脅かされるようになった
- 青田昇ヘッドコーチから打撃改造に取り組むよう指示されていた
- 打撃を改造するため車を打って自宅ガレージにネットを張りトスバッティングに励んでいた
- 2つ年下の新聞配達の青年・黒島昌彦にトスバッティングを頼んでいた
- 毎日1000球の特打を2ヶ月半続け打撃改造に成功していた
- 手の平の皮がズルズルにむけて紫色になっていた
- 1964年には初の打率3割をマークして阪神タイガースの優勝に貢献
- ジーン・バッキーは近鉄に金銭トレードされた後引退していた
- 渡米した際にジーン・バッキーに電話していた
- アメリカでジーン・バッキーと再会すると意気投合していた
- ジーン・バッキーは2019年に他界していた
- 潔く引退するか現役にしがみつくかの判断に迫られていた
- 下馬評では次期監督候補の筆頭だったが・・・
- 後輩の村山実が次期監督に就任することを告げられ心穏やかではいられなかった
- 次期監督の村山実に協力してほしいと言われ、「二流の二塁手」として頑張ろうと決めるも・・・
- 戸沢一隆球団社長からは一転引退して欲しいと迫られていた
- 遊撃手の後任・藤田平にアドバイスの手紙を送るも返事はなかった
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- タイトルは盗塁王2回に最多安打1回
- 野球殿堂競技者表彰、ベストナインほか受賞多数
- 背番号
- 現役引退後は阪急ブレーブスなど他球団からコーチのほか選手としてもオファーを受けるも固辞していた
- メジャーリーグを見学し野球について勉強したいと思っていた
- 1970年から5年間毎年渡米してメジャーの野球を勉強していた
- 後輩・村山実の兼任監督を気の毒だと思っていた
- 阪神は残り2試合を「1分け1敗」以上で優勝だったにもかかわらず優勝を逃していた
- 阪神タイガースからの監督オファーはマスコミの人物からだった
- 阪神タイガース監督第一期の背番号は尊敬するヤンキースの監督・ビリー・マーチンの「1」をつけていた
- トレード寸前の江夏豊を阪神再建に必須だと球団に残留を申し入れていた
- 江夏豊に奮起を促していた
- 現役時代には江夏豊から自信と不安の両方を感じていた
- 監督初勝利は江夏豊の完投勝ちだった
- 開幕当初は江夏豊も意地を見せていたが・・・
- 今度は江夏豊のトレードに同意せざるを得なかった
- 自ら江夏豊にトレード話をしようとするも・・・
- 江夏豊に長年恨まれていた
- 「走るチーム」を目標にして「阪神相撲部屋」を解消しようとしていた
- 田淵幸一の守備を巡り辻佳紀バッテリーコーチが退団していた
- 「スリム化作戦」で田淵幸一は体が引き締まりカモシカと言われるまでになっていた
- 前年度の1/3の選手を入れ替えるチーム改革を進めていた
- 監督就任2年目の1976年は開幕から好調で2位だった
- 掛布雅之の父親からはレギュラー選手にして欲しいと言われていた
- 掛布雅之は千本ノックでもへこたれなかった
- 同期入団の掛布雅之と佐野仙好に三塁のレギュラー争いをさせていた
- 掛布雅之は阪神を代表する選手となって「ミスター・タイガース」と称されるまでに
- 佐野仙好は掛布雅之と同期でドラフト1位入団の強打者だった
- 阪神監督2年目の1976年は首位・巨人にわずかに届かず2位も・・・
- 阪神タイガース監督第1期は3年で解任されていた
- 阪神タイガース監督第1期は「消化不良」だった
- 久万俊二郎オーナーから突然阪神の監督を要請されていた
- 安藤統男監督が突然辞任し阪神電鉄本社は新しいチームづくりを急いでいた
- 阪神球団は監督に西本幸雄を熱望も断られ、吉田義男を推薦されていた
- 自身の意図を正しく理解し必要なことを的確に遂行してくれるコーチ集めをしていた
- コーチ陣に「一蓮托生内閣」を提案していた
- 二塁手から外野手に回され、持てる力を発揮しきれていない岡田彰布を何とか活かしたいと考えていた
- 二塁手だった真弓明信はあっさり外野手への転向を了承してくれた
- プロ意識に徹した真弓明信に救われていた
- 岡田彰布を二塁手に復帰させていた
- 解雇寸前だったランディ・バースの残留を強く訴えていた
- ランディ・バースの成績を上回る外国人選手を見つける自信がなかった
- ランディ・バースは開幕戦から不振に苦しんでいた
- 巨人に2対1でリードされていた
- ランディ・バースがバックスクリーンへ1号となる逆転3ランホームランを放っていた
- 続く掛布雅之と岡田彰布もバックスクリーンへ連続ホームラン
- 「甲子園バックスクリーン3連発」は伝説になっていた
- その後、ランディ・バースは三冠王を獲得する活躍で阪神のリーグ優勝と日本一に大きく貢献
- ランディ・バースからは優勝するためのアドバイスももらっていた
- ヤクルトに1点先制されるも真弓明信のソロホームランとランディ・バースの2ランホームランで逆転
- ヤクルトに3対5と逆転されるも・・・
- 掛布雅之のソロホームランを皮切りに2点追加して5対5の同点に追いつく
- 中西清起が9回10回を3人ずつで打ち取り21年ぶりのリーグ優勝
- 21年ぶりのリーグ優勝は雲の上を歩いているような気分だった
- 甲子園で「六甲颪(おろし)」と「ヨシダ・コール」を聞き涙が止まらなかった
- 西武との日本シリーズ第6戦では初回に長崎啓二の満塁ホームランが飛び出していた
- 最後はゲイルがピッチャーゴロに打ち取り球団初の日本一に
- 1985年オフには選手に情が移って翌年に向けた「チームの土台作り」が進まなかった
- 1986年の投手陣はボロボロだった
- 1986年は4番・掛布雅之がケガで離脱し、3番・ランディ・バースの破壊力が半減していた
- ランディ・バースは吉田義男監督の采配を批判するも詫びていた
- 1987年は掛布雅之が酒気帯び運転で逮捕され、久万オーナーに欠陥商品と言われてやる気を失い、最下位に
- 掛布雅之が「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになって変わり始めていたことを危惧していた
- 掛布雅之は復活することなく1988年に33歳の若さで引退していた
- 掛布雅之の早すぎる引退が残念で仕方がなかった
- 竹之内雅史コーチに職場放棄されていた
- マスコミは造反した竹之内雅史コーチを讃え、吉田義男に責任を追及していた
- 阪神球団はマスコミを使い退陣を迫っていた?
- マスコミに激昂し「お前ら」と言うと言葉尻を取られて報道されていた
- 盛永老師の教え「灰頭土面」を思い出し、最後まで辞めないと心に決めていた
- 阪神の監督を解任される
- 「一蓮托生」を誓った一枝修平コーチらと「天地会」を結成していた
- 日立フランスの社長・浦田良一にフランス野球を見ることを勧められていた
- 日立フランスの社長・浦田良一から依頼されフランスチームの監督に就任していた
- 個人主義のフランス人にチームプレーを理解させることは大変だった
- ノックによってフランス選手たちとのコミュニケーションに成功していた
- フランス選手には時間厳守の概念がなかった
- フランス・ナショナルチームの指導も始め、気がつくと7年経っていた
- フランスを五輪には導けなかった
- イギリス遠征時に後の皇后・小和田雅子と出会っていた
- フランスから一時帰国中に阪神から3度目の監督オファーを受けていた
- 3度目の阪神監督オファーは一旦は断っていた
- 阪神タイガース・三好一彦球団社長が早朝に訪ねてきたのはマスコミのスクープを避けるためだった
- 成長したフランス選手の姿を見るうち阪神の監督を引き受けてみる気になっていた
- フランス選手のひたむきな姿を見るうち阪神ナインにこのことを伝えるのが使命だと感じていた
- フランス・パリから国際電話で阪神の監督オファーを引き受けていた
- 1997年3度目の監督就任1年目は5位
- 阪神を活性化させるため仏ナショナルチームの選手を練習に参加させていた
- 新庄剛志にはチームを活性化する「暴れん坊」的存在になることを期待していた
- 新庄剛志には自由奔放なスタイルを尊重して野球に集中させたいと考えていた
- 桧山進次郎を4番で使い続け、自己最多の23本塁打を記録させていた
- ドラ1の今岡誠とベテランの和田豊を競争させていた
- 2年目の1998年はクリーンナップを新戦力に総入れ替えするも・・・
- 2年目の1998年は最下位に終わり監督を辞任
- 球審・マイク・ディミュロは中込伸の投ゴロへのタッチを即座に判定しなかった
- 「Judgement slow!(判定が遅い!)」と猛抗議するも・・・
- 「暴言」を理由に退場させられていた
- 試合後も退場の理由が「暴言」ということに怒りが収まらなかった
- 責任審判の井野修一塁塁審は歯切れの悪い受け答えで曖昧に濁していた
- ディミュロ球審は他の試合ではボール球を報復でストライク判定していた
- 妻・篤子との馴れ初めは?
- 大阪・阪急今津線の甲東園にある住宅街に新居
- 妻・篤子は東京のお嬢様育ちだったため関西に馴染むのに苦労していた
- 吉田義男の阪神監督時代には妻・篤子はストレスから胃潰瘍を患ったことがあった
- 現在は妻・篤子とともに兵庫県宝塚市に在住
- 子供は娘が2人
に、ついてまとめてみました。
遊撃手というポジションに誇りを持ち、監督になってからも、掛布雅之さんから、「守備に攻撃的姿勢を求める」「攻めダルマ」と言われるほど、「守りで攻める」ことに強いこだわりを持っていた吉田さん。
近年は、走者の危険なスライディングがなくなり、スライディングを避けながらゲッツーを取るという技術が必要なくなっていますが、吉田さんの華麗で確かな技術は、現在の野球でも大いに参考になるはず。是非、現在の選手も継承していってもらいたいものです。