物心ついた時から大の阪神(大阪)タイガースファンだったという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、立命館大学1年生の時、その憧れの阪神から入団の誘いを受けたそうですが、阪神には切羽詰まった事情があったといいます。
「吉田義男と広岡達朗は大学時代からお互い意識し合っていた!」からの続き
物心ついた時から阪神(大阪)タイガースの大ファンだった
吉田さんは、物心ついた時から阪神(大阪)タイガースの大ファンだったそうですが、特に、1949年の阪神(大阪)タイガースのラインアップは、
- (中)後藤次男 打率.300 10本塁打
- (左)金田正泰 打率.302 10本塁打
- (右)別当薫 打率.322 39本塁打
- (三)藤村富美男 打率.332 46本塁打
- (捕)土井垣武 打率.328 16本塁打
- (二)本堂保次 打率.302 4本塁打
- (一)安居玉一 打率.281 7本塁打
- (遊)長谷川善三 打率.219 3本塁打
- (投)
と、1番から6番まで3割打者、かつ、1番から5番まで二桁本塁打が並び、ダイナマイト打線と言われていたそうで、吉田さんは、このような豪快なタイガースが大好きだったそうです。
(1949年のチーム打率2割8分3厘は、各球団とも陣容が整っていなかった終戦の翌年の1946年を除き、球団最高打率だったそうです。その後、1985年に2割8分5厘、2010年に2割9分と更新されています。)
スポーツニッポン紙で阪神(大阪)タイガース勝敗を確かめるのが楽しみだった
また、吉田さんは、実家のお店で取っていたスポーツニッポン紙で、その勝ち負けを確かめるのが楽しみだったそうですが、できるだけ臨場感を得るために、イニングスコアを手で隠し、一回の表裏、二回の表裏と、順々に手をずらしながら、得点経過を見ては、胸をときめかせていたのだそうです。
(藤村富美男さん、後藤次男さん、別当薫さんに憧れて、ブロマイドも持っていたそうです)
大学1年生の時に憧れの阪神からスカウトされる
そんな吉田さんですが、立命館大学1年の時(1952年10月)、その憧れの阪神(大阪)タイガースから入団の誘いが来たそうで、タイガースのスカウト兼マネージャーの青木一三スカウトが、大学や自宅を足繁く訪れ、口説かれたのだそうです。
(この頃、早稲田大学・森監督の「吉田は広岡よりも上」発言の影響もあり、吉田さんの名前がマスコミに出るようになっていたそうです)
阪神(大阪)タイガースは内定していた松本豊の入団がなくなり急遽代わりの遊撃手が欲しかった
実は、阪神(大阪)タイガースは、1950年、プロ野球が2リーグに分裂した際、別当薫選手、土井垣武選手、呉昌征選手、本堂保次選手といった主力選手を、ごっそり、毎日オリオンズに引き抜かれ、選手層の薄さに悩んでいたそうで、
そんな中、慶応大の名遊撃手・松本豊内野手の入団が内定していたそうですが、松本さんも家庭の事情から、急遽、社会人野球の鐘紡(現在のカネボウ)へ入社してしまったそうで、
新しいチーム作りを迫られていた阪神(大阪)タイガースは、松本さんに代わる遊撃手がどうしても欲しかったため、代役だとはおくびにも出さず、「君こそ将来の阪神を背負って立つ選手だ」と、吉田さんを1ヶ月間も口説いたのだそうです。
(1949年終わりから1950年始めにかけて、日本のプロ野球組織「日本野球連盟」の球団数拡大を巡って既存球団が対立し、セントラルと太平洋の2リーグに分裂したのだそうです)
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