1986年には、連覇を狙う中、ケガで離脱し、1987年には、酒気帯び運転で逮捕されると、久万俊二郎オーナーに「欠陥商品」とまで言われて、プライドを引き裂かれ、落ち込んでいたという、掛布雅之選手に対し、プレーで取り返すことを期待していたという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、実は、1985年、監督就任時から、掛布選手には危惧を抱いていたといいます。
「吉田義男は1985年に阪神を優勝させるも1987年には最下位に沈んでいた!」からの続き
掛布雅之が「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになって変わり始めていたことを危惧していた
実は、吉田さんは、1985年に監督に就任した時から、掛布雅之選手に危惧を抱いていたといいます。
というのも、吉田さんが監督第一期(1975~1977年)のとき、掛布選手は非常に真摯に野球に取り組んでいたそうですが、「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになってから、そのプライドが間違った方向に向いている気がして仕方なかったというのです。
(チームリーダーとしての自覚も物足りなかったそうで、1985年終盤、吉田さんに優勝へのアドバイスをくれたランディ・バース選手も、その時、掛布選手のリーダーシップのなさに対する不満を口にしていたそうです)
掛布雅之は復活することなく1988年に33歳の若さで引退していた
そこで、吉田さんは、「このままでは掛布がダメになる」と思い、1985年シーズン終了後、掛布選手との対話の場を設け、故障を防ぐためにも、たっぷりランニングをして下半身を鍛えるよう助言したそうですが、
キャンプを見ていても、掛布選手はいつも一番後ろにいて、ノルマを果たすだけのような気のない走りをしていたそうです。
そして、1986年の後半戦直前にも、吉田さんは、同じことを求めつつ、一流選手の心構えについても諭したそうですが、掛布選手の行動に変化はなく、結局、掛布選手は復活することなく、1988年、33歳の若さで、ユニホームを脱いだのだそうです。
(吉田さんは、この、掛布選手とのやりとりで、実績とプライドを持つ選手を管理することの難しさを思い知ったそうです)
掛布雅之の早すぎる引退が残念で仕方がなかった
ちなみに、吉田さんは、そんな掛布選手について、著書「阪神タイガース」で、
伸び盛りの頃の彼のダイナミックな成長を目の当たりにした者として、寂しかった。全盛時にもっと下半身を鍛えていたら、数字も選手寿命も、まだまだ延びていたに違いない。
と、綴っています。
「吉田義男が竹之内コーチに造反されたのは阪神球団の差し金だった?」に続く