主砲の掛布雅之選手が、1986年には怪我、1987年には、酒気帯び運転により逮捕された影響のせいか低迷し、それに伴い、チームの成績も低迷していたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、徐々に、阪神球団から退陣を迫られる動きを見せられるようになっていったといいます。

「吉田義男は1985年監督就任時から掛布雅之を危ぶんでいた!」からの続き

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竹之内雅史コーチに職場放棄されていた

1987年は、主砲・掛布雅之選手が酒気帯び運転により逮捕される以外にも、ランディ・バース選手が車で違反事故を起こすほか、外国人選手の来日も遅れ、成績も黒星地獄に陥っていたそうですが、

(マスコミには、契約のずさんさと管理体制の甘さを散々叩かれたそうです)

そんな中、同年6月6日、札幌での大洋戦で、吉田さんは、8回無死満塁という場面で、代打を使わず、まだ若い八木裕選手と嶋田宗彦選手をそのまま打たせたそうですが、竹之内雅史コーチはその采配が納得できなかったそうで、

(試合は3対6で負けたそうです)

吉田さんが、(この采配は、並木輝男コーチを交えて決めた方針だったことから)

あれは並木コーチと相談して決めた作戦。疑問があれば、並木と一緒にあらためて来てほしい。それから話をしよう

と、諭すも、

たまたま、その夜、並木コーチの帰室が遅かったことから、竹之内コーチはタイミングを失い、顔を潰されたと思ったのか、翌日の試合開始直前、吉田さんの説得にも耳を貸さず、突然、コーチを辞任して大阪へ帰ってしまったのだそうです。

(結局、竹之内コーチはそのままシーズン途中で退団)

マスコミは造反した竹之内雅史コーチを讃え、吉田義男に責任を追及していた

ただ、マスコミは、この竹之内コーチの行動を勇気あるものとして讃え、吉田さんに責任を追及したそうで、

吉田さんが、唖然としながらも、

たしかにコーチを掌握できなかった点では、私に責任がある

と、コメントすると、

吉田、監督辞任!

と、騒いだのだそうです。

(ちなみに、チームは、前半戦(オールスターまで)、19勝54敗2分、勝率.260という惨状で、後半戦に入っても、泥沼は続いたそうで、負けが込むと、深夜、自宅にいたずら電話が鳴り響いたのだそうです)

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阪神球団はマスコミを使い退陣を迫っていた?

実は、竹之内コーチの造反の裏には、フロントにそのような行動を煽る人間がいたほか、同年夏場過ぎから、吉田さんに退陣を迫る動きを見せていたそうで、

これに同調したマスコミが、売れればどんな記事でもよいと言わんばかりに、あることないこと書き立てていたのだそうです。

(並木コーチが打線の不振を嘆き、「もう辞めたくなるよ」と愚痴をこぼしたのを、「並木コーチ、辞任!」と、鬼の首を獲ったかのように書き立てられたこともあったそうです)

「吉田義男は1987年に最下位となり阪神監督を解任されていた!」に続く

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