勉強が好きでなかったことや、金銭的な問題もあり、中学卒業後は高校には進学せず、就職するつもりでいたところ、野球部の顧問だった杉山先生に連れられ、強豪校のセレクション(実技試験)を受けた、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、報徳学院と浪華商業高等学校(浪商)に合格したそうですが・・・どちらも断り、最終的に選んだのは、野球では無名の大阪学院大学高等学校だったといいます。

「江夏豊は中学生のとき大人の草野球チームの助っ人をしていた!」からの続き

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報徳学院と浪商のセレクションを受け最終選考に残るも・・・

中学卒業後は就職するつもりだったところ、野球部の顧問だった杉山先生が、「豊は高校に行かせたい。勉強ではなく野球をやってほしい」と、お母さんや父親代わりだった長兄の房雄さんを説得してくれ、高校に行くことになった江夏さんは、

(杉山先生は、江夏さんが、中学の時、野球部に入部してわずか2ヶ月ほどで、先輩とのケンカが原因で退部していたことから、江夏さんが野球をしている姿をろくに見たことがないはずにもかかわらず、「豊には才能がある」と言い、野球をやらせたがっていたそうで、江夏さんは、そんな杉山先生を、「おかしなことを言うものだ」と思っていたそうです)

杉山先生に連れて行かれるままに、何校か強豪校のセレクション(実技試験)を受けると、兵庫の報徳学院と大阪の浪華商業高等学校(浪商)で最終選考に残り、希望すれば入学できたそうですが・・・

報徳学院にも浪商にも行かなかった理由とは?

報徳学園は、高校球界で有名だった清水一夫監督から、「うちは勉強もせないかん」と言われたため、(勉強嫌いだったことから)やめ、

浪商も、主力以外の部員が走ってばかりいたほか、部員が多くて、ろくに野球ができそうになく、これでは、園田中学野球部の二の舞いになると思い、こちらも、やめたのだそうです。

(浪商の野球部員は白いユニフォーム姿で走っていたため、「白虎隊」と呼ばれていたそうですが、江夏さんは(足は速かったそうですが)長いランニングは大嫌いだったそうで、「白虎隊」にはなりたくなかったそうです)

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新興の大阪学院大学高等学校への進学を決意

そんな中、浪商と同じ阪急京都線の沿線にあった、新興の高校・大阪学院大学高等学校にも寄ってみようかということになり、訪ねてみると、野球部は創部6年目で、部員が30人くらいしかいなかったそうで、

江夏さんは、ここなら、1年生からボールを投げ、バットを持って打てるのではないかと思い、大阪学院大学高等学校への進学を決意したのだそうです。

(中学で野球部を退部させられたそもそもの原因は、下働きばかりでろくに野球をさせてもらえなかったことだったことから、とにかく思い切り野球がしたかったほか、お山の大将になりたいという気持ちも少なからずあったそうです)


燃えよ左腕: 江夏豊という人生

「江夏豊が高1の時は球は速いながらノーコンだった!」に続く


大阪学院高校に入学した江夏さんと江夏さんのお母さん。

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