1949年には、まだ高校に入学していないにもかかわらず、(中学3年で)春の選抜高校野球に出場するほか、夏の甲子園にも主力打者として出場し、活躍したという、中西太(なかにし ふとし)さんですが、その陰には、舛形博監督による千本ノックなど、スパルタ練習があったといいます。

「中西太は1年生にして甲子園で名前を轟かせていた!」からの続き

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高校2年生の時には三塁手から捕手に転向していた

高松一高では、舛形博監督がキャッチャー出身で、「野球の中心は、扇の要の捕手」という考えだったことから、中西さんは、高校2年生の時、三塁手から捕手に転向させられたそうですが、

投手のピッチングにも付き合わなければならないほか、フリー打撃の捕手役もやらなくてはならず、とても重労働だったそうです。

ただ、投手をリードすることで、打撃でも配球を読む際のプラスになったほか、捕手の経験は、中西さんのその後の野球人生に大きくプラスになったそうです。

(人差し指を痛め、冬の寒い時は指の感覚を失うほどだったそうですが、この経験から、我慢することを覚え、何より、野球を大局的に見ることの大切さを学ぶことができたのだそうです)

高校2年生頃からますます飛ばすようになっていた

一方、バッティングは、高校2年生頃から、ますます飛ぶようになったそうで、フリーバッティングでは、打球がレフトの奥の2階建ての校舎に直撃して、屋根の瓦が粉々になり、教室のガラスを割ったそうで、

そのうち、冗談ながら、「学校を壊す気か!」という苦情が野球部に届いたほか、教員ら関係者から「頑張れよ」と激励されたそうです。

高校時代は舛形博監督による千本ノックなどスパルタ練習で鍛えられていた

そんな中西さんは、舛形博監督の千本ノックなどスパルタ練習によって鍛えられたそうで、中西さんがノックでへばってひっくり返ると

おいっ、太に水をかけろ!

と、水をかけられたそうですが、

中西さんの打球は、ショートライナーと思った打球がそのままレフトスタンドに入るほど、凄まじかったことから、舛形監督が中西さんの打撃投手をする時は、外角に投げるとピッチャーライナーの打球が速すぎてよけ切れないと、内角ばかり投げられていたのだそうです。

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舛形博監督はグラウンドを離れると優しい兄のような存在だった

そんな舛形監督も、グラウンドを離れると、優しい兄貴といった感じの指導者だったそうで、週末に遠征した後、高松に帰って来ると、食堂で、部員たちにカレーライスをおごってくれたそうで、

中西さんは、

あのカレーライスの味は忘れられない。鬼監督として厳しい練習でどやされたが、それが終わると部員をジョークで笑わせた。今思えば選手を乗せるのがうまかった。まさに血の通ったシゴキといえる。私は良い指導者たちに恵まれた。

と、語っています。

「中西太は高3の甲子園でランニングホームランを打っていた!」に続く

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