1975年に阪神タイガースの監督に就任するも、3位⇒2位⇒4位という成績で3年であっさり解任されたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、その後、解説の仕事などをしていたそうですが、それから8年後の1985年、突然、阪神の久万俊二郎オーナーから監督を要請され、これを引き受けたといいます。

「吉田義男は阪神監督第1期は3位⇒2位⇒4位で解任されていた!」からの続き

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久万俊二郎オーナーから突然阪神の監督を要請されていた

1977年、3年間務めた阪神タイガースの監督を解任された吉田さんは、その後は、解説の仕事などをしていたそうですが、それから8年後の1985年、突然、阪神の久万俊二郎オーナーから、「チームの土台作りをしてほしい」と、監督の要請があったそうで、

吉田さんは、びっくりしたものの、この申し出を引き受け、再び、阪神の監督(第2期)に就任したそうです。

安藤統男監督が突然辞任し阪神電鉄本社は新しいチームづくりを急いでいた

実は、1984年のシーズンオフ、留任の方向で話しがまとまっていた安藤統男監督が、突然、辞任を発表したそうで、

(辞任の理由については、本塁打王争いをしていた掛布雅之選手と中日の宇野勝選手を巡る「敬遠合戦」の責任を追及されたほか、藤田平選手の安藤監督批判が表沙汰になったことが原因だと報じられたそうですが、田中隆造オーナーでさえ、テレビ報道でこのことを知り、仰天したそうです)

阪神電鉄本社は、阪神球団を根本的に何とかしなければと、久万俊二郎オーナーのもと、球団社長に中埜肇(なかの はじめ)氏を据え、岡崎義人球団代表とともに、新チーム作りを急いだのだそうです。

(田中オーナーは、1984年シーズン終了後、オーナーを辞任しています)

阪神球団は監督に西本幸雄を熱望も断られ、吉田義男を推薦されていた

そこで、阪神球団は、監督には、阪急と近鉄を一から強豪チームに育て上げた西本幸雄さんを熱望し、交渉にあたったそうですが、

西本さんは高齢を理由に固辞し、

伝統ある阪神を立て直す監督は、やはり、情熱豊かな阪神OBがふさわしいのではないか。私の知る限りでは吉田くんが最適と思う

と、吉田さんを推薦したそうで、

(吉田さんと西本さんは同じテレビ局で働いていたそうです)

吉田さんは、尊敬する西本さんからの推薦だったことや、前回の監督生活で果たせなかった自分らしい野球を思い切りしてみたい、という気持ちが湧いてきたこと、また、お世話になった阪神に恩返しがしたいという思いもあり、監督要請を引き受けたのだそうです。

自身の意図を正しく理解し必要なことを的確に遂行してくれるコーチ集めをしていた

こうして、再び、阪神タイガースの監督に就任した吉田さんは、まず始めにコーチ陣の編成に着手したそうで、

(吉田さんは、自分の目指す野球をやるためには、その意図を正しく理解し、必要なことを的確に遂行してくれるスタッフを揃えなければならないと思ったのだそうです)

大洋優勝時の名捕手・土井淳さんにヘッドコーチを、阪急の鉄腕・米田哲也さんに投手コーチを、優勝時のチームメイトだった並木輝男さんに打撃コーチを、中日で守備の名手として活躍した一枝修平さんに守備コーチをお願いすると、約1週間、電話の前に座りっぱなしで待ち、一気に了解を取り付けたのだそうです。

(また、すでに阪神に在籍していた高橋重行さんを投手コーチ(ブルペン担当)に、竹之内雅史さんを一軍打撃コーチ補佐に加えたそうです)

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コーチ陣に「一蓮托生内閣」を提案していた

また、吉田さんは、前回の監督時、チームを掌握しきれなかった反省を生かし、あらゆる面で納得したうえで、首脳陣一丸となることが、新しいチームを作るためには不可欠だと考えたそうで、阪神球団には、コーチ陣の給料をはじめ、待遇面での処遇をほぼ一任してもらったそうで、

コーチ陣に、

優勝という大目標に向かって、心を合わせてひとつになろう。スタートも、やめるときも、全員一緒と考えてほしい。一蓮托生や

と、「一蓮托生内閣」を提案したのだそうです。

「吉田義男は岡田彰布を外野手から二塁手に復帰させていた!」に続く

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