1975年に、阪神タイガースの監督に就任すると、「阪神相撲部屋」と冷やかされていたベテラン選手たちのスリム化に取り組むなど、チーム改革を進めた、吉田義男(よしだ よしお)さんは、1年目の1975年は3位、2年目の1976年は2位となるも、3年目の1977年、終盤に(当時の)球団ワーストタイとなる9連敗をしたことが響き4位でシーズンを終わると、あっさり監督を解任されたといいます。

「吉田義男は掛布雅之と佐野仙好にサードのレギュラー争いをさせていた!」からの続き

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阪神監督2年目の1976年は首位・巨人にわずかに届かず2位も・・・

1975年、阪神タイガースの監督に就任した吉田さんは、1年目は、球団史上初の最下位に沈んだ巨人に16勝9敗1分と大きく勝ち越したものの、3位、

2年目の1976年は、江夏豊投手と交換トレードで獲得した江本孟紀投手が15勝9敗を挙げるほか、ブリーデン選手が40本塁打、田淵幸一選手が39本塁打、掛布雅之選手が27本塁打、マイク・ラインバック選手が22本塁打と打線が爆発し、72勝45敗13分と27個も貯金を作るも、76勝45敗9分けの巨人にわずかに届かず2位止まりだったそうです。

阪神タイガース監督第1期は3年で解任されていた

それでも、1年目2年目ともに、前半戦は首位で折り返していたことから、吉田さんは、「もう少しチームを強化すれば・・・」と思っていたそうですが、

(下馬評でも、阪神は優勝候補の本命に挙げられていたそうです)

3年目の1977年は、開幕戦のヤクルト戦で、掛布雅之選手が松岡弘投手から満塁ホームランを放つなど快勝し、開幕10試合を8勝1敗1分けと好調な滑り出しも、直後には6連敗するなど、その後も、連勝と連敗を繰り返すなど安定せず、シーズン終盤、(当時の)球団ワーストタイとなる9連敗を喫してしまい、そのまま浮上できず、借金8の4位で全日程を終了すると、吉田さんはあっさりと阪神の監督を解任されたのだそうです。

(このシーズンは勝率.466で、当時の阪神史上最低勝率だったそうです)

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阪神タイガース監督第1期は「消化不良」だった

ちなみに、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、この時のことを、

(監督生活を)一言で表現すると「消化不良」だったように思う。メジャーの野球を5年間研究した私には、自分なりの理想の野球、監督像というものがあり、自分にも選手にもそれを求めすぎて、空回りしたきらいがある。

また、それを目指して頑張っている途中で、〝外圧〟によってその座を追われる結末も含めて、先の言葉(消化不良)があてはまるように思うのだ。

私は納得がいかなかった。消化不良だった。40代前半の私はまだ若くて、チームを掌握し切れなかったことも事実だが、もっとマスコミへの対応にも心を砕くべきだったのだろう。

マスコミの一部に担がれた監督就任の経緯を考えれば、その反対派のマスコミにはもっと神経を使うべきだった。でも、それは3期8年の監督生活を終え、70歳になった今だから思うことである。

そのときの私はそう思わなかった。「阪神タイガースは永遠に不滅です」昭和52年オフ、辞任にあたって私は長嶋氏の名セリフを拝借し、別れの言葉を述べた。

と、綴っています。

(吉田さんは、事あるごとに、マスコミから叩かれたそうですが(マスコミはいつも選手側についていたそうです)阪神球団は知らん顔だったそうです)

「吉田義男は西本幸雄の推薦で阪神監督第2期のオファーを受けていた!」に続く


阪神タイガース

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