高校卒業後、ミネソタ・ツインズに入団するも、5年間をマイナーリーグで過ごし、ようやくメジャーに昇格しても、ウォーニングトラック・フライボールヒッターで出場機会に恵まれず、その後、カンザスシティ・ロイヤルズ、モントリオール・エクスポズ、サンディエゴ・パドレス、テキサス・レンジャーズを転々としていた、ランディ・バース(Randy Bass)さんは、やがて、ヤクルトスワローズに売り込まれ、ヤクルトも強い関心を寄せていたそうですが、膝の故障で一塁しか守れないことがネックで破談となったといいます。

「ランディ・バースは若い頃メジャーリーグでレギュラーになれなかった!」からの続き

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パドレスのジャック・マキーオン代表からヤクルトスワローズの相馬和夫球団代表と武上四郎監督に売り込まれていた

1982年オフ、ヤクルトスワローズの相馬和夫球団代表と武上四郎監督がアメリカ・ハワイでウインターミーティングに参加し、新外国人候補を物色していたそうですが、パドレスのジャック・マキーオン代表に呼び止められ、

(マキーオン代表とは、ヤクルトの当時のキャンプ地アリゾナ州ユマで、パドレスの施設を借りていたことが縁で知り合ったそうです)

パドレスからレンジャーズに移った左打者で「ウオーニングトラック・フライボールヒッター」がいると、バースさんの情報を聞いたといいます。

ヤクルトスワローズはバースの打撃フォームを分析し強い関心を抱いていた

そこで、ヤクルトの相馬和夫球団代表と武上四郎監督は、同じくウインターミーティングに参加していたバースさんの代理人アラン・ミヤサンド氏とコンタクトを取り、(同じホテルに泊まっていた)ミヤサンド氏の部屋で何度もビデオを見て、バースさんの打撃フォームを分析したそうです。

(ウォーニングトラックとは、外野フェンス手前で芝生の色が変わっていたり、白線が引いてある場所のことを言い、バースさんはそこまでしか打球を飛ばせず、メジャー6年間で通算9本塁打だったのですが、3Aでは全7シーズンで2桁本塁打を放ち、1980年には37本もの本塁打を記録していました)

ヤクルトはバース獲得に動いていた

すると、バースさんの打撃フォームは、重心が低く、何より安定感があり、打球も広角に飛び、ヒッチ(打つ前に手首を下げる動き)も小さかったことから、これなら落ちる球にも対応できる、狭い日本の球場なら、現状の飛距離で十分だと判断し、環境に慣れれば大化けするのでは、との期待から、バースさん獲得に動いたのだそうです。

(ミヤサンド氏の元には、日本の複数球団からバースさんへの問い合わせが来ていたそうですが、ジャック・マキーオン氏に「ヤクルトとの交渉を優先してくれ」と言われていたことから、他球団への返事は保留していたそうです)

ヤクルトはバースが膝を故障し外野を守れないことが分かると手を引いていた

しかし、最終段階で、バースさんが膝を故障して守備に難があり、外野を守れず、ポジションが一塁に限定されていることが分かると、バースさん獲得を断念。

というのも、ヤクルトの一塁には、大杉勝男選手、杉浦享選手と、2人の強打者がおり、

武上監督が

大杉、杉浦の2人は打線から外せない

と、判断したのだそうです。

(その後、ヤクルトは、補強ポイントを二塁手に切り替え、この年のオフに、阪急(現・オリックス)を退団した、強打と堅守のボビー・マルカーノ選手を獲得しています)

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阪急と阪神でバースの争奪戦となるも、最終的には阪急がブーマーに乗り換え、阪神がバースを獲得

すると、その後、最終的には、阪神と阪急がバースさん獲得で争い、阪神の藤江清志編成部長と阪急の矢形勝洋営業部長が契約金額で競り合ったそうですが、

阪急が、ブーマー・ウェルズ選手に乗り換え、バースさんから手を引いたことで、1982年12月、バースさんは阪神への入団が正式に決まったのでした。

「ランディ・バースは阪神1年目の1983年前半に解雇寸前だった!」に続く

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