ヤクルトスワローズでは、野村克也監督だけでなく、コーチたちからも嫌がらせを受け、しらふでは寝られないほど、精神的に追い詰められていたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、このままではいけないと、1992年、ヤクルト球団に野球留学を直訴し、ロサンゼルス・ドジャースのマイナーリーグの春季キャンプに参加したといいます。

「長嶋一茂はヤクルト時代コーチからも嫌がらせを受けていた!」からの続き

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ヤクルト球団にアメリカへの野球留学を直訴していた

ヤクルトスワローズでは、野村克也監督だけでなく、野村監督のご機嫌取りをするコーチたちからも嫌がらせを受け、毎晩のように、大学時代の友達や後輩たちと朝まで飲んだくれていたという一茂さんですが、

やがて、このままではダメになると思うようになったそうで、1992年、ヤクルトに入団して4年目の冬、ヤクルト球団に、アメリカへの野球留学を直訴したそうです。

(野球留学といえば聞こえはいいものの、嫌がらせを受けている環境から逃げるためだったそうで、この頃の一茂さんは、ヤクルトのコーチたちの顔を二度と見ないで済むなら何でもするという気持ちだったそうです)

父・長嶋茂雄に反対されるもドジャースのマイナーリーグの春季キャンプに参加

そんな中、どこでその話を聞きつけたのか、お父さんの長嶋茂雄さんには、

お前は日本できっちり野球をやるべきなんだ。アメリカ留学なんてとんでもない

お前が今、悩んでいるようなことは、後で考えたらすごく下らないことなんだよ

と、反対されたそうですが、

とにかく、今の環境から逃げ出したい一心で、1992年4月1日、アメリカ・フロリダに飛ぶと、ロサンゼルス・ドジャース傘下マイナーリーグ1Aのベロビーチ・ドジャースの春季キャンプに参加したのだそうです。

アメリカの教育方法が性に合っていた

すると、アメリカでは、試行錯誤してあちこちに頭をぶつけながら自分の力で成長させる「トライ・アンド・エラー」方式だったことから、日本にいた時とは打って変わり、のびのびと野球の練習に集中することができたそうで、

(日本の教育方法は、選手が壁にぶつからないよう、あらかじめ壁の存在を口を酸っぱくして言い聞かせるというもので、一茂さんは、監督やコーチのほかにも、OB、評論家、そして、なんと、カメラマンからも、助言や指導をされていたそうで、あまりにも多すぎる助言に、誰の言うことも聞くことができなくなっていたそうです)

お父さんの長嶋茂雄さんから、「何でも自分の思う通りにやってみろ」という方式で育てられた一茂さんには、アメリカ型の教育方法が性に合っていたのだそうです。

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アメリカでは自分から聞くまで何も教えてくれなかった

ちなみに、一茂さんは、日本で懇切丁寧に教え込まれていた時には、コーチたちの教えに耳をふさいでいたそうですが、アメリカではコーチたちは何も教えてくれなかったことから、

(ベロビーチ・ドジャースのコーチたちから受けた指導は、守備に関しては、「グラブ・ゲット・トゥ・ザ・グラウンド(グラブを地面につけろ)」、バッティングに関しては、「ハード・ヒット・センターライト(とにかく強く叩いて、ボールを右中間に持っていけ)」だけだったそうです)

逆に、様々な疑問が湧いてきて、日本にいた時には絶対にやらかなった「質問」をしてみたことがあったそうですが、十ほどの答えが返ってきたそうで、

こちらが聞きさえすれば、呆れるくらい、事細かに教えてくれたそうで、コーチたちは、まるで、一茂さんが壁に頭をぶつけ、疑問が湧いて質問してくるのを待ち構えていたかのようだったそうです。

「長嶋一茂の巨人移籍は父・長嶋茂雄の巨人監督復帰で実現していた!」に続く

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