ヤクルトスワローズへの入団が決まりかけるも、膝の故障により守備に難があり外野を守れないことで、ヤクルトが手を引き、最終的には、1982年12月、阪神への入団が正式に決まった、ランディ・バース(Randy Bass)さんですが、阪神入団1年目の1983年、早くも解雇の危機に直面していたといいます。

「ランディ・バースは当初ヤクルトに入団するはずだった?」からの続き

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阪神入団1年目の1983年4月は無安打で終わり、助っ人の球団ワースト記録を更新していた

バースさんは、1982年12月、阪神に入団するのですが、1983年のオープン戦で死球を受けて左手首尺骨を骨折してしまい、早々に離脱してしまいます。

それでも、開幕5戦目の4月16日には、代打で起用され、公式戦初出場を果たすのですが、この打席は三振。翌17日と20日の試合にも代打で登場するのですが、またしても無安打に終わります。

さらには、妻のリンダさんが日本の生活に馴染めず、ホームシックとなって一時帰国してしまい、4月下旬には戦列復帰するのですが、ヒットさえ打てない日が続き、4月は、助っ人での球団ワースト記録となる15打席連続無安打となってしまいます。

(バースさんは、関西マスコミからは、早くも「オンボロバス」などと批判され、先発メンバーに名前を連ねるとチームは勝てない「疫病神」とまで嫌われ、安藤統男監督は「みなさん(報道陣は)どうして、そう5試合や6試合くらいでダメ外人と決めつけるの。結論をそう急がせないでよ」と嘆いています)

1年目の1983年は最終的には、打率2割8分3厘、35本塁打、83打点の好成績を収めていた

しかし、5月4日の巨人戦(後楽園)で来日初ヒットを放つと(開幕16打席目)、5月7日のヤクルトスワローズ戦(神宮球場)では来日初本塁打(開幕23打席目)を記録するなど、徐々に日本の野球に対応していき、

最終的には、打率2割8分8厘、35本塁打、83打点の好成績で1年目(1983年)のシーズンを終えたのでした。

スティーブ・ストローターとともに解雇の候補に上がっていた

ただ、当時、支配下選手登録できる外国人選手は3人まで、一軍で出場できるのは2人までと決まっていたことから、開幕から15打席打てなかったバースさんは、解雇の危機に瀕していたといいます。

というのも、阪神には、当時、外国人選手は、バースさんのほか、スティーブ・ストローター選手、キム・アレン選手がいたのですが、先発投手陣が手薄だった阪神は、急遽、リチャード・オルセン投手の獲得に動き、このうち誰か一人を解雇する必要に迫られていたのだそうです。

そんな中、まず、キム・アレン選手の残留が決定すると、あとは、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなどなかなか調子が上がらなかったバースさんか、ミート力は抜群ながらも(自打球を左足に当てて)骨折していたストローター選手が解雇することになったそうですが、

最終的には、ストローター選手がケガにより、立つことも歩くこともままならない状態だったことに加え、バースさんのパワーほか、態度、努力、人格を評価し、バースさんの残留が決定したのだそうです。

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1年目の1983年は後半だけで26本塁打していた

すると、バースさんは、この年(1983)、6月半ばから実力を発揮し始め、後半戦だけで26本塁打を放つ活躍を見せたのですが、

バースさんは、

1年目はスロースタートだったのですが、安藤(統男監督)さんがずっとそばについてくださり、いろいろなアドバイスをしてくれました。

それと一番大きかったのは、並木輝男打撃コーチの存在です。私は左打者としてライトに引っ張ることはいつでもできたのですが、並木コーチはコースに逆らわずセンターからレフトへ打つことを辛抱強く教えてくださいました。

並木さんは有能な打撃コーチであり、素晴らしい人間でした。今の自分があるのは並木コーチのおかげだと思っています。レフトから左中間にホームランが出るようになり、タイトルもとれるほどの打者に成長できたと思っています

並木さんは辛抱強く私の練習に付き合ってくれました。センターからレフトへ打球を運ぶんだということを教えてくれました。

そのきっかけは「ガイジンストライク」でした。来日直後、明らかにアウトコースに外れたボールを審判にストライクとコールされたときに聞いた言葉です。そこで考えました。その外角のボールを打てるように練習するのか、あるいは三振し続けるのか。

その結果、並木コーチと一緒に外角球を逆方向に打つ技術を習得するため、練習を繰り返しました。自分のモノにするまでには半年かかりましたね。

と、語っています。

「ランディ・バースは阪神入団後2年連続で解雇寸前だった!」に続く

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