1949年の春の選抜高校野球には、まだ高校に入学していないにもかかわらず(中学3年)、高松一高の3番・サードで春の甲子園に出場したという、中西太(なかにし ふとし)さんは、同年、高松一高が夏の甲子園にも出場を決めると、変わらず、中心選手として出場し、全国に名前を轟かせたといいます。

「中西太は中3で春の選抜甲子園に出場していた!」からの続き

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高校1年生の夏の甲子園にも中心選手として出場

中西さんを擁した高松一高は、1949年の夏の県大会も順当に勝ち上がり、準決勝では高松商業高校を2対0、決勝では丸亀高校を6対1で下して、北四国大会に出場すると、北四国大会決勝では、再び丸亀高校との戦いになったそうですが、ここでも丸亀高校に延長12回4対1で勝ち、「第31回全国高校野球選手権大会」(1948年よりこの呼名に改称)に進出が決定。

高松一高は優勝候補の一角に挙げられたそうですが、同時に中西さんの名前も広く知れ渡ったそうです。

(当時、四国は1県1代表ではなく、北四国代表1校と南四国代表1校の2校のみの出場で、中西さん対象の北四国代表は、香川大会上位校と愛媛大会上位校で北四国大会を行い決めていました)

水戸商業高校戦では「6番」に下げられるも適時打を打って6対4の勝利に貢献

そして、迎えた「第31回全国高校野球選手権大会」の初戦、水戸商業高校戦(2回戦)では、中西さんは、「3番」から「6番」に下げられたそうですが、適時打を放って、チームを6対4の勝利に導いたそうで、

高松一高と同じ優勝候補の一角だった芦屋高校(兵庫)との準々決勝では、再び「3番」に戻ったそうですが、3番に戻ったことで力が入りすぎ、2打数ノーヒット。ただ、小原忠雄投手が7安打無失点に抑え、高松一高は5対0で完封勝利したそうです。

(高松一高は、「1番」が主将・伊藤哲選手、「2番」が玉木春雄選手(後に西鉄ライオンズでチームメート)、「3番」が中西さん、「4番」が山下健選手(後に阪急ブレーブスで捕手)、「投手」は小原忠雄投手と北村勝投手の2枚看板だったそうです)

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甲子園準決勝は初出場の湘南高校にサヨナラ負け

ただ、同年8月18日、準決勝の湘南高校(神奈川)戦では、朝から雨が降り続く悪コンディションの中、中西さんは、6回に二塁打、10回に二塁強襲安打と2本のヒットを放つも、高松一高は、延長10回、2対3でサヨナラ負けを喫してしまったそうで、

その後、湘南高校は、決勝も勝ち、優勝しているのですが、実は、甲子園初出場だったそうで、中西さんは、湘南高校が優勝旗を手にするのを見て、勝負の世界は、力もさることながら、時の勢いというプラスアルファは見逃せないと、今まで考えたこともなかったことに気づいたのだそうです。

ちなみに、この時、湘南高校の左翼手で、後に、慶大を経てプロ入りした佐々木信也選手は、

チーム内で「おいっ、(高松一の)サードにすごいのがいるぞ」となった。「何て名前だ」というと、中西太だと・・・

わたしと同じ1年生で、これが3番打者ですごいんだ。がんがん打った。最後は(湘南の)6番で、3年生の先輩の宝性さんがサヨナラ打を打った。

と、中西さんの凄さを語っています。

「中西太の高校時代は千本ノック等スパルタで鍛えられていた!」に続く

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