1988年のシーズン中、中日の二軍でくずぶっていた、ラルフ・ブライアント選手を見出し、近鉄に入団させた、中西太(なかにし ふとし)さんは、ブライアント選手にマンツーマンレッスンし、本塁打王3回、打点王1回を記録する、名打者に育て上げます。

「中西太は中日二軍からブライアントを見出していた!」からの続き

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ブライアントはオーバースイングで三振を重ね涙を流すこともあった

中日の二軍でくすぶっていたブライアント選手を見出し、近鉄に入団させた中西さんは、オーバースイングで三振を重ねるブライアント選手に、細いバットでティー打撃をさせるなど、マンツーマンレッスンを開始したそうで、

力はあるんだけど当たらないし、毎日三振して涙を流すこともあった。でも『三振はいいんだ』と言い聞かせて教えたつもりだ

肩が開かないこと、アッパースイングになり過ぎないことだけを言って、ひたすらトスバッティングをやった。前から投げたり、横から投げたり、いろいろやりながらね。ボールがワシの体に当たったり、バットが手に当たることもしょっちゅうや。長いときは40分くらいやったね。アイツには日本で絶対に成功しなきゃというハングリーさがあった

と、語っています。

ブライアントは1988年は74試合ながら34本塁打

そんなブライアント選手は、1988年6月29日のロッテ戦でデビューしているのですが、いきなり、4回表、1死一、二塁という場面で、左中間に適時二塁打を放って、勝利打点をあげると、その後も打ちまくり、

10月19日、優勝を賭けたシーズン最終戦(ロッテオリオンズ戦)では、ダブルヘッダー第2試合の8回表に、勝ち越しの本塁打(34号)を打つなど、最終的には、74試合の出場ながら、打率3割7厘、34本塁打、73打点を記録します。

(ただ、チームは、8回裏に早くも同点に追いつかれて、そのまま延長戦に突入し、同点のまま優勝を逃しています)

ブライアントは1989年前半は22試合連続三振の大不振に陥っていた

しかし、翌1989年は、開幕から打撃不振にあえぎ、6月は、月間本塁打2本、打率1割9分1厘と大不振に陥いると、それが守備にも影響を与え、平凡なミスを繰り返すようになったそうで、6月20日のロッテ戦では、近鉄に入団して初めて先発メンバーからも外されてしまいます。

(5月20日から6月21日にかけ、パ・リーグ新記録となる22試合連続三振も喫しています)

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ブライアントは1989年後半は巻き返し本塁打王を獲得するなど近鉄の優勝に大きく貢献

それでも、後半戦は、徐々に調子を上げていくと、10月12日、首位の西武と1ゲーム差に迫ったダブルヘッダー第1試合では、4回表、第2打席でソロホームラン、6回表、第3打席で同点の満塁ホームラン、8回表、第4打席で勝ち越しのソロホームラン、第2試合、第2打席でも勝ち越しのソロホームランと、2試合をまたぐ4打数連続ホームランを放ち、

最終的には、打率2割8分3厘、49本塁打、121打点で本塁打王に輝く活躍で、近鉄のリーグ優勝に大きく貢献したのでした。

ちなみに、ブライアントさんは、日本での成功の秘訣について、

シンボウ(辛抱)

と、答えているのですが、

これは、中西さんの「辛抱じゃ」という口癖を覚えたものだったそうで、日本に来る前から「辛抱」の連続だったブライアントさんは、中西さんの指導のもと、ついに花開いたのでした。

「中西太は岩村明憲をひと目見て素質を感じ指導していた!」に続く

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