西武の監督が広岡達朗監督になると、いきなり、全選手の前で、東尾修さん共に批判されたうえ、禁酒、禁煙、自然食、玄米食の摂取を強要され(管理野球)、その後も、痛烈に批判され、ついていけないと感じていたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、リーグ優勝を果たし、日本一に輝くと、初めての優勝の喜びに酔いしれながらも、広岡監督のやり方が間違っていなかったことを確信したといいます。

「田淵幸一は広岡達朗の「管理野球」を受け入れダイエットに成功するも・・・」からの続き

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南海とのダブルヘッダー第1試合で逆転2ランホームラン

1982年4月30日の南海(現・ソフトバンク)戦でスタメンを外されると、以降、スタメンだったり、途中出場だったりを繰り返し、悶々とした日々を送る中、急激なダイエットの後遺症で、集中力がなくなるほか、度々、眠気に襲われるようになったという田淵さんですが、

チーム(西武)はというと、1982年5月11日に首位に立つと、6月12日には首位から陥落するも、前期終了まで残り6試合の時点で、首位阪急に0.5ゲーム差に迫っている状況だったそうで、

そんな中、迎えた6月20日、南海とのダブルヘッダー第1試合で、3対4とリードを許していた9回、無死三塁のチャンスで代打で登場した田淵さんは、金城基泰投手からの1球目はボール、2球目はファウル、3球目は空振り、4球目はボールとなると(カウント2ストライク2ボール)、

(1球ごとに気合が入ったそうです)

5球目のカーブを完璧に捉え、左翼席への逆転2ランホームラン(15号)としたそうで、チームにとっても、田淵さん自身にとっても、まさに、起死回生の一発となったのでした。

プロ14年目にして西武で初のリーグ優勝を経験

そして、この試合で勢いに乗った西武は、第2試合も勝って首位を奪還し、そのまま、前期優勝を果たすと、その後、10月9日から14日に行われた、後期優勝の日本ハムとのプレーオフも、3勝1敗で制し、西武ライオンズとしても、田淵さんにとっても(プロ14年目にして)、初のリーグ優勝を果たしたのでした。

(パシフィック・リーグでは、1973年から1982年までの10年間、2シーズン制とプレーオフ制度を採用しており、1年を65試合ずつの前期・後期に分け、前期優勝チームと後期優勝チームが5回戦制のプレーオフを実施し、年度優勝を争うという形式でした)

広岡監督を胴上げで落とすのは日本一になってからにしようと引き伸ばしていた

ちなみに、10月14日、西武が2勝1敗で迎えたプレーオフ第4戦では、9回、最後の打者を迎えた時、

ベンチでは、東尾さんが田淵さんに、

おっさん、やるか(広岡監督を胴上げして落とそう)

と、ささやいたそうですが、

田淵さんは、

まぁ、待て。日本一になったら給料も上がる。落とすのはその時だ

と、答えたのだそうです。

(田淵さんの言葉は不思議と選手たちに受け入れられたそうで、秋季キャンプで広岡監督を「胴上げして落とそう」と提案した時も、「落とすのは日本一の胴上げのときにしよう」と言った今回の提案も反対する者はいなかったそうです)

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初めての日本一に酔いしれつつ広岡監督のやり方は間違っていなかったと感じていた

そして、10月23日から30日に行われた、中日との日本シリーズでは、西武は4勝2敗で、見事「日本一」に輝き、田淵さんは、プロ14年目にして、初めて、日本一の喜びに酔いしれたそうですが、

こみ上げる感激の中で、

(選手を怒らせてやる気を出させる)広岡監督のやり方は間違っていなかった

と、思ったのだそうです。

(歓喜の中、東尾さんは、「やろうぜ(胴上げして落とそう)!」と勇んだそうですが、田淵さんは、またしても、「巨人を破らないと本当の日本一とは言えん。巨人に勝ったときだ」と、抑えたのだそうです)

「田淵幸一は王貞治の55本塁打を上回るペースも死球で左手首を骨折していた!」に続く


プロ14年目、2チーム目にして初めて優勝を味わい、喜びを爆発させる田淵さん。

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