通算2339安打、打率2割9分、536本塁打、1475打点、231盗塁で、首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回、最高出塁率3回、ベストナイン10回、ダイヤモンドグラブ賞10回、最優秀選手2回という、凄まじい成績で、広島カープの黄金時代を築いた、山本浩二(やまもと こうじ)さん。

今回は、そんな山本浩二さんの若い頃(高校時代~プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。

山本浩二

「山本浩二の生い立ちは?小1で野球を始め中2で三塁手から投手に転向していた!」からの続き

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山本浩二の10代の頃

高校1年生の夏の広島大会で投手として登板し7回コールド勝ちに貢献

山本浩二さんは、中学卒業後は、廿日市(はつかいち)高校に進学し、野球部に入部すると、1年生ながら、すぐにレギュラーになったそうで、

1年生の夏の広島大会では、1回戦の広島県立上下高等学校戦で一塁手としてスタメン出場すると、途中から投手としても登板し、7回コールド勝ちに貢献します。

高校3年生の夏の広島大会1回戦でノーヒットノーランを達成

そんな山本浩二さんは、高校3年生の夏の広島大会1回戦の尾道東高等学校戦でノーヒットノーランを達成し、2回戦の尾道北高等学校戦でも3安打完封したそうです。

山本浩二
高校時代の山本浩二さん。

高校3年生の時には南海ホークスの鶴岡一人監督に大学進学を勧められていた

ただ、高校3年生の時、夏の大会が始まる直前に、南海ホークスの鶴岡一人監督が練習を観に来た際には、緊張のあまり、全くいいところを見せられず、

今の実力ならプロに行くより大学に行った方がいい

と、大学進学を勧められたそうです。

法政大学は受験していない文学部英文科で合格していた

その後、山本浩二さんは、法政大学の経営学部と経済学部を受験し、無事、合格したそうですが・・・

なぜか、合格通知には、受験していない文学部英文学科と書いてあったといいます。

大学1年生の時は球拾いと先輩相手の打撃投手ばかりさせられていた

さておき、法政大学に進学し、野球部に入部した山本浩二さんは、1年生部員だけで70~80人いる中、なかなか抜きん出ることができず、球拾いと先輩相手の打撃投手ばかりさせられていたといいます。

大学2年生の時は秋の東京六大学野球リーグ戦ではレギュラーとしてベンチ入りしていた

そんな中、大学2年生の時、松永怜一監督に投手から外野手に転向するよう命じられると、春の新人戦では活躍して、同年秋の東京六大学野球リーグ戦ではレギュラーとしてベンチ入りしたそうです。

山本浩二

山本浩二の20代の頃

大学4年生の時に富田勝、田淵幸一とともに「法政三羽烏」と呼ばれていた

すると、山本浩二さんは、大学4年生の時には、ついに5番に抜擢されて、3番・富田勝さん、4番・田淵幸一さんと共にクリーンアップを組み、

春のリーグ戦では打率4割1分9厘、12打点、2本塁打と素晴らしい成績で、法政を優勝に導き、富田勝さん、田淵幸一さんと共に「法政三羽烏」と呼ばれたのでした。

山本浩二
優勝パレードでオープンカーに乗る(左から)小林郁夫さん、山本浩二さん、富田勝さん、田淵幸一さん。

22歳の時にドラフト1位指名で広島カープに入団

そんな山本浩二さんは、1968年11月12日、22歳の時には、ドラフト会議で、少年の頃からファンだった広島カープから1位指名を受け、相思相愛で広島カープに入団します。

山本浩二
1968年のドラフト会議で広島に1位指名された山本浩二さん。(左は松田耕平オーナー代理、右は根本陸夫監督)

23歳の時(プロ1年目)には打撃は振るわなかった

すると、山本浩二さんは、プロ入団1年目の1969年、23歳の時には、120試合に出場して、打率2割4分、12本塁打、40打点で、規定打席にもギリギリ到達するのですが・・・

大学とプロの違いを痛感したそうで、このままではダメだと思ったといいます。

24歳の時には厳しい特訓に明け暮れる日々を送っていた

そこで、山本浩二さんは、1969年のオフと、2年目の1970年(24歳)は、入団してきた関根潤三ヘッドコーチと広岡達朗内野守備コーチの妥協を許さないノックを受けたり、マシン打撃では、1時間の打ちっぱなしをさせられるなど、試合以外は、厳しい特訓に明け暮れる日々を送ったそうですが、

1時間打ちっぱなしをさせられることで、体が無駄な力の入らないフォームを覚えていったのだそうです。

山本浩二

26歳の時にセ・リーグ記録の9打席連続安打を記録

それでも、山本浩二さんは、プロ入り3年目、4年目も、目を見張るような成績を上げることは出来ずにいたのですが、

そんな中、4年目の1972年には、セ・リーグ記録の9打席連続安打を記録しています。

(ただ、当時の日本記録である10打席連続安打まであと1つというところで届かず、悔しい思いをしたそうです)

28歳の時には就任したばかりのジョー・ルーツ監督のメジャー式の指導が肌に合っていた

そんな山本浩二さんは、プロ5年目の1973年、念願だった球宴(オールスター・ゲーム)に初出場を果たすと、6年目の1974年には、打撃3部門共に自己ベストを更新し、

7年目の1975年、29歳の時には、就任したばかりのジョー・ルーツ監督のメジャー式の指導が肌に合い、練習に手応えを感じたといいます。

山本浩二とジョー・ルーツ監督
山本浩二さん(右)とジョー・ルーツ監督(左)

28歳の時に衣笠祥雄と共に赤ヘル旋風を巻き起こしていた

すると、その後、ジョー・ルーツ監督は、わずか15試合で監督を辞任するのですが、山本浩二さんは、1975年、28歳の時には、球宴(オールスター・ゲーム)の直前から広島カープの4番に定着し、

同年7月19日、甲子園球場で行われた球宴(オールスター・ゲーム)第1戦では、衣笠祥雄選手とともに2打席連続アベックアーチを放って、「YK砲」と呼ばれるなど、世間に「赤ヘル旋風」を巻き起こしたのでした。

山本浩二と衣笠祥雄
山本浩二さん(左)と衣笠祥雄さん(右)。

29歳の時にプロ野球史上最大級の「広島ファン2000人暴徒化事件」が勃発していた

そんな山本浩二さんは、1975年シーズン後半戦も活躍を続け、広島初優勝が目前となるのですが、広島カープが球宴後に首位に立ったのは、球団創設以来初めてのことで、初めて経験する優勝争いのプレッシャーと広島のうだるような暑さに、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたといいます。

そんな中、9月10日、プロ野球史上最大級の「広島ファン2000人暴徒化事件」が勃発しています。

「広島ファン2000人暴徒化事件」
広島市民球場で行われた広島対中日戦はカープの初優勝目前ということもあってか、興奮したファンがグラウンドになだれ込みました。

29歳の時に広島カープを初のリーグ優勝に導いていた

それでも、山本浩二さんは、1975年シーズンは、最終的に、打率3割1分9厘(首位打者)、30本塁打、84打点という素晴らしい成績で、衣笠祥雄選手、大下剛史選手らとともに、広島カープを初のリーグ優勝に大きく貢献すると、

それまで、それほど仲が良い訳ではなかったという衣笠祥雄選手と抱き合って大泣きし、以降は、どうすればチームが強くなるか話し合えるライバルとなったのだそうです。

山本浩二と衣笠祥雄
山本浩二さん(右)と衣笠祥雄さん(左)。

29歳の時に首位打者を獲得

また、山本浩二さんは、この年(1975年)、首位打者、最優秀選手(MVP)、ベストナインを獲得しているのですが、実は、首位打者は僅か9毛差で獲得していたといいます。

山本浩二
(左から)衣笠祥雄選手、山本浩二さん、古葉竹識監督、大下剛史選手。

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山本浩二の30代の頃

31歳の時に自己最多の44本塁打を記録

そして、山本浩二さんは、プロ入り9年目の1977年シーズンには、自己最多の30本塁打を大きく上回る44本塁打を記録すると、

(ただ、王貞治選手が50本塁打を打ち、本塁打王にはなることは出来ませんでした)

その後、1981年まで5年連続で40本塁打を記録するなど本塁打を量産し、プロ入り9年目にして覚醒し、広島カープの黄金期に大きく貢献しています。



山本浩二

37歳の時に4度目の本塁打王に輝くも持病の腰痛をかばいながらの成績だった

そんな山本浩二さんは、1982年も好成績を残し、1983年、37歳の時には4度目の本塁打王に輝いているのですが、実は、持病の腰痛をかばいながらの成績だったといいます。

山本浩二

38歳の時は開幕から成績は低迷するもシーズン終了時には好調を取り戻し広島カープの4度目のリーグ優勝に大きく貢献

しかし、山本浩二さんは、1984年は開幕から調子が上がらず、4番⇒5番⇒6番と降格させられると、6番に降格させられた巨人戦では、2対2で迎えた8回一死三塁の場面で、5番の長内孝選手が目の前で敬遠される屈辱を味わい、8月には、ついに3試合連続で休養を命じられてしまいます。

それでも、その悔しさをバネに発奮し、8月8日時点で2割4分7厘まで下がっていた打率を、シーズン終了時には2割9分3厘まで戻す活躍で、広島カープの4度目のリーグ優勝に大きく貢献しているのですが、

実は、この復活劇には、古葉竹識監督が大きく関わっていたといいます。

山本浩二と古葉竹識
古葉竹識監督(左)と山本浩二さん(右)。

38歳の時に通算2000本安打、39歳の時に通算500本塁打と通算200盗塁を達成

そんな山本浩二さんは、1984年、38歳の時には、通算2000本安打、1985年、39歳の時には、通算500本塁打と通算200盗塁を達成しています。

山本浩二
1985年7月26日、500本塁打を達成し花輪を贈呈される山本浩二さん。

40歳で引退を決意

また、1986年、40歳の時には、126試合に出場して、打率2割7分6厘、27本塁打、78打点という成績を残し、広島カープの5度目のリーグ優勝に貢献しているのですが・・・

ペナントレース終盤には、本塁打と思った打球がフェンス手前で失速するほか、持病の腰痛の悪化でフル出場ができる状態ではなかったことから、ここが潮時とこの年限りで引退することを決意したといいます。

(それでも、この年の日本シリーズ第1戦、9回裏には、西武・東尾修投手から劇的な同点本塁打を打つなど、引退するには惜しい活躍をしています)

山本浩二
1986年、広島対西武の日本シリーズ第1戦の9回裏、西武・東尾修投手から、劇的な同点本塁打を放つ山本浩二さん。

そして、このシーズンの日本シリーズが終わり(広島カープは日本一にはなれませんでした)、表彰式終了後、山本浩二さんは、ナインたちの手により、サプライズで胴上げされています。

山本浩二
1986年10月27日、広島ナインたちにより、サプライズで胴上げされる山本浩二さん。

「【画像】山本浩二の若い頃(監督・コーチ時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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