現役引退後、メジャーリーグ視察のために渡米すると、キャンプを張っていた巨人(川上哲治監督)からスパイ扱いされ、激しい怒りに震えたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、一方、本来の目的であるメジャーリーグ視察では、日本との大きな違いに気づいたといいます。

「広岡達朗は巨人(川上哲治)からスパイ扱いされ復讐を胸に誓っていた!」からの続き

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アメリカでは投手の役割が明確だった

現役引退後、メジャーリーグ視察のため渡米した広岡さんは、シカゴ、ニューヨーク、デトロイトなど東部も回ったそうですが、実戦を観戦する中、日本の野球との大きな違いに気がついたといいます。

それは、日本は、エース級でも救援でも登板し、ダブルヘッダーで2試合投げることもあったそうですが、アメリカは、先発投手の順番は固定されており、先発、中継ぎ、抑えの役割が明確だったそうで、

広岡さんは、その理由を考えたところ、

そうか、ここは民主主義で権利と義務を重視する世界なんだ

と、平等のバランスを崩さぬよう、5人の投手を順番で回していることに気がついたのだそうです。

(例えば、白人投手を黒人投手より多く登板させたら差別と受け取られる可能性があるなど)

アメリカでは選手は苦手なことも積極的に挑戦しアピールしていた

また、選手のアピール力にも驚いたそうで、監督が「バント」と指示すれば、仮にバントが苦手だったとしても、「私はバントがうまくない」とは絶対に言わなかったそうで、監督の指示が全てのアメリカでは、選手は指示をチャンスと感じ、結果を恐れず、前向きに挑戦していたのだそうです。

(一方、当時の日本では、自分の苦手なことを明かすのは謙虚で良いという風潮があったそうです)

帰国後は自ら直談判してサンケイスポーツの評論家に採用される

さておき、広岡さんは、ラジオ関東の野球解説者のほか、スポーツニッポンとの契約も決まっていたそうですが、アメリカ視察が長引いたことから、契約を打ち切られてしまったそうで、

帰国後は、仕方なく、サンケイスポーツを訪ね、評論家として契約してもらえるよう直談判すると、サンケイスポーツの北川貞二郎運動部長から、「自分自身で原稿を書く」ことを条件に採用されたのだそうです。

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サンケイスポーツ評論家時代は「一点絞り」を指導されていた

その後、広岡さんは、北川運動部長から、文章について非常にしごかれたそうですが、この時の経験が後に監督として采配を振るうのに大いに役に立ったといいます。

というのも、広岡さんが書いた原稿を、北川運動部長が手直ししてくれたそうですが、簡潔でありながら、まさに自分が言いたいことが入っている文章になっていたそうで、

例えば、広岡さんは、試合で5つのポイントがあった場合、そのすべてを原稿に入れていたそうですが、そうすると、何が重要なポイントなのかよく分からないと、

北川運動部長から、

5つの中で最も大切なことを一つ見つけて書きなさい。一点絞りは新聞記事を書く上で非常に大切なことです

と、指導されたそうで、「捨てる勇気」が大切であることを学んだのだそうです。

(後に、広岡さんは、1976年のシーズン途中からヤクルトの監督に就任しているのですが、その際、この一点絞りという考えを応用したそうです)

「広岡達朗は広島守備コーチのとき苑田聡彦を正遊撃手に育て上げていた!」に続く

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