ヤクルト球団から監督辞任を引き留められると、留任交渉の席では、終始、「勝つための野球」に取り組む姿勢を見せるよう球団側に迫るなど、主導権を握り、現場のことは全面的に任され、球団は協力するという条件で、ヤクルトと新たに3年契約を結んだという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、翌1979年、開幕から8連敗し最下位となると、状況が一変したといいます。

「広岡達朗はヤクルト監督留任交渉では主導権を握っていた!」からの続き

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1979年は開幕から主力選手が次々と故障離脱して低迷していた

1978年には、弱小チームだったヤクルトを球団初のリーグ優勝&日本一に導いたことで、監督留任交渉の席では、終始、主導権を握り、記者会見では、勝ち誇った表情を見せていた広岡さんですが、

いざ、1979年のシーズンが始まると、主力選手が次々と故障離脱し、開幕から8連敗して最下位に沈んでしまったそうで、負けが込むことで、以前からヤクルトナインに溜まっていた、広岡さんの厳しさを全面に出す管理野球に不満が噴出。

1979年8月7日には、反広岡派の首脳陣&選手の要求により、佐藤邦雄球団社長から広岡さんに、(選手から不評だった)参謀格の森昌彦ヘッドコーチ、植村義信投手コーチの降格を通告されたのだそうです。

(佐藤球団社長は、広岡さんに無断で森ヘッドコーチを解任し、植村投手コーチを二軍に降格させたと言う話も)

ヤクルト球団と揉めた末にヤクルトを退団

このことから、広岡さんは、球団に対して、

前年オフ、3年契約を結んだ際、全面バックアップという条件を盛り込んだではないか。それをわずか半年で何だ

と、言うと、

球団には、

勝てないんだから仕方ないだろう

と、言われたそうで、

最後には、辞任か解任かで揉める泥仕合となり、揉めに揉めた末、同年8月29日、広岡さんは、森ヘッドコーチ、植村投手コーチとともにヤクルトを退団したのだそうです。

(前年、チームを球団初優勝に導いた監督が異例のシーズン途中退団となったのでした)

近鉄からの監督就任要請を断っていた

その後、広岡さんは、日本テレビ、ラジオ関東、夕刊フジの野球解説を務めていたのですが、1981年9月、近鉄バファローズから、この年限りで退任する西本幸雄監督の後任として監督就任の要請を受けると、

西本監督に認めてもらえた喜びの一方で、あまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも、在阪球団ということに引っ掛かりを覚えたそうで、このオファーは断ったのだそうです。

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阪神からも監督就任要請を受けるも契約年数で折り合わず破談となっていた

また、同時期、同じく在阪球団の阪神タイガースからも、知り合いを通じて連絡があり、小津正次郎球団社長と会うと、「3年契約でお願いできませんでしょうか」と監督要請されたそうで、

阪神はヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人のライバル」「打倒・巨人」でやってきた広岡さんにとって、格好のチームと前向きに検討したそうですが、

広岡さんが5年契約を要求すると、阪神側がこの要求を飲まず、3年契約を譲らなかったため、阪神監督就任の話は、破談となったのだそうです。

(3年契約だと、選手たちが「どうせ3年経ったら辞めるんだろ」とバカにして言うことを聞かないため、5年契約でなければ意味がないのだそうです)

「広岡達朗は西武監督でもヤクルト監督時代と同様に選手を管理していた!」に続く

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