ヤクルトスワローズと新たに3年契約で監督に留任するも、1年目の1979年、開幕から8連敗して最下位となると、球団と揉めに揉めた末、シーズン途中でヤクルトを退団した、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、その後、近鉄バファローズと阪神タイガースから監督要請を受けるも、いずれも最終的には断ったそうですが、広島コーチ時代の監督だった根本陸夫さんから西武ライオンズの監督要請を受けると、このオファーを受けたそうです。

「広岡達朗はヤクルト監督を優勝した翌年の途中で辞めていた!」からの続き

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西武ライオンズの根本陸夫から監督就任の要請を受けていた

1981年9月には、近鉄バファローズと阪神タイガースから監督要請を受けるも、いずれも最終的には断ったという広岡さんですが、

その後、広島コーチ時代の監督で、西武ライオンズの監督兼球団管理部長の根本陸夫さんから、

お前しかいない。良い選手はしっかり取ってある。行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んであるぞ

と、西武ライオンズの監督を要請されると、このオファーを受けたそうです。

(実は、西武は、1980年のシーズン中に、もともと阪急ブレーブスの監督を務めていた上田利治さんの監督就任が99.9%決まっていたそうですが、土壇場で白紙に戻り、上田さんは阪急ブレーブスの監督に復帰。また、1980年に巨人の監督を退いたばかりの長嶋茂雄さんにも監督就任を要請していたそうですが、こちらも断られたそうで、最後に、広岡さんに監督への就任を要請したのだそうです)

西武ライオンズ監督就任に際しては自身にも厳しい契約に納得していた

ちなみに、広岡さんは、5年契約で、契約金6000万円、年俸3600万円と、当時の一軍監督としては異例の厚遇だったそうですが、

  • 広岡さん自身の都合により退団する場合、年俸はそこでカット。受領済みの契約金も返還する。
  • 休養中は給料は支払われない。
  • 舌禍に対しては厳罰を処する。

という、自身にとっても、非常に厳しい契約書を作成してもらったそうです。

また、広岡さんは、この時も、ヘッドコーチは森祇晶さん、打撃コーチは佐藤孝夫さんと、1978年にヤクルトスワローズを日本一に導いた際と同じコーチを招聘しています。

(広岡さんが西武の監督を引き受けたのは根本さんの誘いだっただけではなく、広岡さんの反・巨人意識と堤義明オーナーの「巨人に追い付け追い越せ」の経営哲学が一致したからだそうです)

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西武でもヤクルト監督時代と同様の管理体制を敷いていた

こうして、広岡さんは、1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任すると、最初に取り組んだのは、技術的なことや戦術的なことではなく、食生活の改善だったそうで、

試合が終わったら、肉とビールをかっ食らうというのが、当時のプロ野球選手の間では当たり前のことだったそうですが、広岡さんは、(ヤクルト監督時代と同様に)疲労回復を促進するため、アルカリ性の食物を多く摂るように選手に求めたそうです。

また、広岡さんは、肉の摂取量を抑えるほか、自然食、玄米食の摂取を強要し、選手がキャンプで楽しみにしていた食事の時間を極端に短くし、さらには、禁酒、禁煙、禁マージャンとしたのだそうです。

(「コンディションの維持などアマチュアやること」という風潮が強かった当時の野球界では、広岡さんの考えは極めて異端だったそうです)

「広岡達朗は西武監督時代に日本シリーズで巨人を倒し日本一になっていた!」に続く

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