1978年、ヤクルトスワローズを初のリーグ優勝に導き、日本シリーズでも、4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスを4勝3敗で倒して、日本一にも導いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、実は、日本一となった時点で、監督を辞任しようと決めていたといいます。

「広岡達朗は監督時代ヤクルトを初のリーグ優勝&日本一に導いていた!」からの続き

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ヤクルトを日本一に導いた直後、阪神監督就任と報道されていた

1978年10月23日、ヤクルトスワローズを初の日本一に導くと、日本中のスポーツ紙の1面に胴上げされる写真が載り、「花開く広岡野球」などのタイトルが踊ったという広岡さんですが、

そんな中、報知新聞だけが、「広岡監督 退団決意-阪神の監督就任へ-」と報道したといいます。

これを受け、ヤクルト関係者は「祝勝ムードに水をかけよって!」と激怒し、

松園尚巳(まつぞの ひさみ)オーナーも、

あれがあの新聞(巨人系)のウチに対する優勝の〝お祝い〟だと解釈している。とにかく広岡を辞めさせるようなことはしない

と、発言し、

翌日24日には、一斉に否定記事が掲載されたのだそうです。

ヤクルトを日本一に導いた時点で退団を決意していたが・・・

結果、広岡さんは留任し、このスクープは誤報のように扱われたそうですが、実は、広岡さんは、日本一になった時点で、ヤクルトの退団を決意していたといいます。

というのも、広岡さんは、1976年、荒川博前監督の後任として昇格した際、松園オーナーから、

  1. スワローズを優勝の争えるチームにすること
  2. 後継者を育てること

という、2つの要望を受けたていたそうですが、

広岡さんは、自身のことを、

言ってみればチームの基礎工事を請け負った建築家みたいなもの

と、表現しており、

基礎が固まりかけてきたと思えた1978年には、リーグ優勝を果たし、日本シリーズに勝ち、そして、後継者として武上四郎さんも育て上げていたことから、

広岡さんは、知人に、

オーナーとの2つの約束も果たした。もう自分がこれ以上、チームにとどまる必然性は何もない。請負師は基礎ができりゃ、辞めていくことになるのさ

と、話していたのだそうです。

(そこには、阪神からの監督招聘も絡んでいたそうで、報知新聞は、阪神の小津球団社長の動きも的確につかんでいたのだそうです)

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関係各社から体裁が悪いと監督辞任を反対されていた

また、広岡さんの退団を否定した松園オーナーも、当初は広岡さんの辞意を了承していたそうですが、ヤクルトを支える多くの企業が「日本一になった監督をやめさせては体裁が悪い。商売にも影響する」と大反対したそうで、

結果、10月26日午後4時、東京・青山の「皇家飯店」で広岡さんとヤクルト球団の話し合いが行われたのだそうです。

「広岡達朗はヤクルト監督留任交渉では主導権を握っていた!」に続く

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