1986年の西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦で、土壇場の9回裏に、山本浩二(やまもと こうじ)さんの起死回生の同点ホームランで負け試合を同点に持ち込んだ広島カープは、一気に流れに乗り、その後、第2戦、第3戦、第4戦と3連勝して、日本一に王手をかけるのですが、今度は、逆に、第5戦、第6戦、第7戦、第8戦と、4連敗して日本一を逃してしまいます。しかし、表彰式終了後、山本さんは、阿南準郎監督より引退を伝えられたナインたちの手により、サプライズで胴上げされたそうで、涙が止まらなかったといいます。
「山本浩二は引退年の日本シリーズで起死回生の本塁打を打っていた!」からの続き
山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズ第5戦目は同点の9回に先頭で出塁するも…
1986年の日本シリーズ第5戦は、第1戦と同じく、北別府学、東尾修両エースが登板すると、投手戦となり、8回裏終了時点で1対1の同点。
そんな中、9回表、広島は先頭打者の山本さんが中前打で出塁すると、長嶋清幸選手が送りバントして一死一塁となり、続く衣笠祥雄選手が中前打するのですが、当たりが良すぎてホームには還れず、一死一三塁。
ここで、三塁走者だった山本さんは、代走のスペシャリスト・今井譲二選手と交代し、打席には何でもできる木下富雄選手が入ったのですが…
結果は三ゴロで、今井選手が飛び出して三塁と本塁の間で狭殺され二死。続く達川光男選手も三振に終わり、勝ち越しのチャンスを逸してしまいます。
(1点入れば勝てる状況の中、山本さんはいつスクイズのサインが出るかと、サインばかり見ていたそうですが、結局、スクイズのサインは出ず、木下選手はスイングし三ゴロに終わったのでした)
山本浩二の引退年(1986年)の日本シリーズ第5戦はサヨナラ負けしていた
その後も、両チームとも無得点のまま12回裏を迎えると、広島・北別府投手が先頭の辻発彦選手を四球で出し、伊東勤選手に送られて一死二塁とされると、
打席には、10回表から好投していた工藤公康投手がそのまま打席に入ったのですが、北別府投手の球数は既に170球に達していたことから、さすがに交代。
しかし、リリーフした津田恒実投手が、バッティングのいい工藤投手に内角の速球を右翼線へヒットされ、広島はサヨナラ負けとなってしまったのでした。
山本浩二の引退年(1986年)の日本シリーズ第8戦は2点先制するも同点に追いつかれていた
このサヨナラ負けで流れが変わってしまった広島は、第6戦、第7戦も敗れて(3勝3敗1分け)、逆王手をかけられ、史上初の第8戦に突入。
すると、広島市民球場で行われた第8戦では、3回、広島の先発・金石昭人投手が、なんと、西武・東尾修投手から2ランを放ち先制するも、6回には、西武・秋山幸二選手に2ランされ、同点に追いつかれてしまいます。
(秋山選手は大事なところで出た値千金の一発にバック宙でホームインしています)
1986年10月27日、値千金の同点2ランを打ちバック宙でホームインする秋山幸二さん。
山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズでは第4戦から体中が痛くてたまらない状態だった
そんな中、7回には、一死で山本さんがレフトへ二塁打し、絶好のチャンス。しかし、5番の長嶋清幸選手が敬遠されると、6番の衣笠祥雄選手は二飛、7番の正田耕三選手は右飛に倒れ、広島は得点できません。
(実は、山本さんは、第4戦あたりから体中が痛くてたまらない状態になっていたそうで、第6戦、第7戦は2試合連続ノーヒット。この二塁打はそんな中、残る力を振り絞って打ったものだったそうです)
すると、8回表には、広島・金石投手が4番の西武・清原和博選手に中前安打を打たれ、5番の大田卓司選手は送りバントを失敗(走者が入れ替わります)、6番の秋山選手は三直に抑えるのですが、
7番のジョージ・ブロコビッチ選手の打席で大田選手に二盗を決められると、ブロコビッチ選手に前進守備のセンターの頭上を越えるタイムリー二塁打を打たれ、西武に勝ち越しを許してしまいます。
山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズでは逆転で日本一を逃すも、表彰式終了後にサプライズで胴上げされていた
それでも、その裏、広島は、8番の達川選手が、登板したばかりの西武・工藤公康投手から四球を選ぶと、代打の木下選手が送りバント、1番の高橋慶彦選手が四球と、またしても、一死一二塁の絶好のチャンスを作るのですが…
2番の山崎隆造選手の打球がセンターライナーとなると、達川選手の代走で二塁走者だった今井譲二選手が飛び出していたため併殺となり、一瞬でチャンスが潰(つい)えてしまったのでした。
そして、9回裏も、広島は、代打の小川達明選手が空振り三振、山本さんは三塁ゴロ、長嶋清幸選手も遊ゴロに倒れ(3試合連続で最終打者が遊ゴロでした)、3勝1分から4連敗で(3勝4敗1分)、西武に日本一を奪われてしまったのでした。
山本浩二はサプライズの胴上げをされ涙が止まらなかった
さておき、こうして、1986年の全試合が終わり、表彰式も終わると、広島の選手は全員、食堂に集められ、阿南準郎監督が山本さんの引退を伝えたそうで、
山本さんは、西田真二選手たちに促(うなが)され、グラウンドに戻ったそうですが、広島市民球場は万来の浩二コール。
ここで、山本さんは、仲間の手によりサプライズの胴上げをされたそうで、
(輪の中には、西武の東尾修投手の姿もあり、とてもうれしかったそうです)
山本さんは涙が止まらなかったそうです。
(山本さんは胴上げされている間、ずっと左手で涙を隠していました)
1986年10月27日、広島ナインに胴上げされる山本さん。
山本浩二は引退会見で目を真っ赤にしていた
そして、翌日(1986年10月28日)、山本さんの引退会見が開かれると、広島は山本さんの背番号8を球団初の永久欠番とすることを発表。
山本さんは、
山本浩二は本当に幸せな男です。山本浩二は本当によく頑張った
と、真っ赤な目で語っています。
山本浩二は西武ライオンズの根本陸夫にDH兼清原和博の教育係として誘われていた
ちなみに、山本さんは、すべてが終わった後、広島入団1年目の時の監督で、当時、西武の管理部長を務めいていた根本陸夫さんのところに挨拶へ行ったそうですが、
根本さんには、
ウチ(西武ライオンズ)に来ないか
DHも代打もある。清原(和博)の教育係としてどうや
と、誘いがあったそうです。
ただ、山本さんは、ありがたい話だとは思いつつ、(カープ一筋で歩んできたため)丁重に断ったといいます。
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