1975年シーズンは、ジョー・ルーツ新監督のメジャー流の教えが肌に合い、練習に手応えを感じていたという、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、その後、ルーツ監督が、わずか15試合で監督を辞任した後、一気に才能を開花させ、衣笠祥雄選手と共にアベックアーチを連発して「YK砲」と呼ばれるなど、赤ヘル旋風を巻き起こします。

山本浩二と衣笠祥雄

「山本浩二はジョー・ルーツ監督のメジャー式がハマっていた!」からの続き

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ジョー・ルーツ監督辞任後、野崎泰一監督代理と古葉竹識監督のもと広島カープは6連勝して2位に浮上していた

広島カープは、ジョー・ルーツ監督が、1975年4月27日、ダブルヘッダー第1試合終了後に指揮権を放棄した後、第2試合から4試合は野崎泰一コーチが監督代理を務め、5月3日からは古葉竹識コーチが監督に昇格しているのですが、

山本さんたち広島ナインの間では、「がんばろう!」というムードが生まれたそうで、第2試合は6対7でサヨナラ負けを喫するも、1975年4月29日からの中日3連戦では、野崎監督代理のもとで3連勝、5月3日からは古葉監督のもとで3連勝と、6連勝で2位に浮上します。

1975年は一時は首位に立つほか前半戦終了時には3位と大躍進していた

その後も、広島カープは、山本さんと衣笠祥雄選手の両主砲、切り込み隊長の大下剛史選手やホプキンス選手などが活躍するほか、投手陣でも、エース・外木場義郎投手、池谷公二郎投手、佐伯和司投手が安定したローテーションを形成し、

5月17日からの沖縄・奥武山(おうのやま)球場で行われた大洋(現・横浜)との2連戦で連勝すると、ついに首位に立ちます。

ただ、6月14日からは5連敗するなどし、前半戦終了時には、首位の阪神に1.5ゲーム差の3位となるのですが、それでも、球団創設以来、万年Bクラスだった広島としては、大躍進を遂げたのでした。

(広島カープは1950年に球団を創設しているのですが、1974年までの25年間で、最下位9回を含むBクラス24回、Aクラスは1968年(3位)のわずか1回。)

山本浩二は1975年の球宴(オールスター・ゲーム)で衣笠祥雄と共に大活躍し赤ヘル旋風を巻き起こしていた

そんな中、山本さんは、球宴(オールスター・ゲーム)の直前には、広島カープの4番に定着し、7月19日の球宴(オールスター・ゲーム)第1戦(甲子園)では3番を任されると、初回に2ラン、続く2回裏にも3ランと、2打席連続ホームランを含む4打数3安打5打点と大爆発。

1975年のオールスター第1戦で本塁打する山本浩二
1975年オールスター第1戦でホームランし田淵幸一さんに迎えられる山本さん。

しかも、6番で出場していた広島のチームメイトの衣笠祥雄選手も、初回と2回に同じく2打席連続ホームランしており、広島勢で2回連続アベック弾となったことから、これをきっかけに、世間では「赤ヘル旋風」が巻き起こったのでした。

(広島のヘルメット(帽子)はこの年(1975年)から、濃紺から赤色に変更されました)

そして、山本さんと衣笠さんは「YK砲」と呼ばれるようになるのですが、その後、王貞治さんと長嶋茂雄さんの「ON砲」の106本塁打に次ぐ、NPB(日本プロ野球)歴代2位の86本のアベック本塁打を打ち、広島カープの黄金期を支えたのでした。

山本浩二と衣笠祥雄
山本浩二さん(左)と衣笠祥雄さん(右)。

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山本浩二は1975年の球宴(オールスター・ゲーム)で与那嶺要(ウォーリー与那嶺)監督の恩に報いたいと思っていた

ちなみに、山本さんは、プロ入り5年目の1973年に、監督推薦で球宴(オールスター・ゲーム)初出場を果たしているのですが、当時から自信を持っていた守備ではバンザイ、打撃でも2打席凡退と散々で、ベンチでガックリしている時、コーチを務めていた与那嶺要(ウォーリー与那嶺)さんに、

なあ、コージ、外野手はね、片手で捕るのと30センチは違う。あの打球は片手で捕らなきゃいかんよ

と、アドバイスしてもらい、ありがたく感じていたそうですが、

この年(1975年)の球宴(オールスター・ゲーム)では、その与那嶺要(ウォーリー与那嶺)さんが全セの監督で、しかも、第1戦(甲子園球場)で3番に抜擢され、驚きつつも、なんとか2年前の恩と期待に応えたいと思っていたそうで、見事、結果を出したのでした。

「山本浩二は初優勝直前に「広島ファン2000人暴徒化事件」に遭っていた!」に続く

1975年オールスター第1戦で本塁打を放つ山本浩二
1975年7月19日、球宴(オールスター・ゲーム)第1戦で本塁打を放つ山本さん。

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