大毎オリオンズのオーナー・永田雅一さんから、投球技術はもちろんのこと、その人間性も高く評価されて、熱望され、山内一弘選手とトレードとなった、小山正明(こやま まさあき)さんですが、貧打線に悩んでいた阪神タイガースも、大毎の強打者だった山内一弘選手がもらえるならと、永田オーナーの猛アタックを受け入れたといいます。

「小山正明は大毎の永田雅一オーナーから人間性を高く評価されていた!」からの続き

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大毎オリオンズのオーナー・永田雅一は阪神に猛アタックして小山正明獲得していた

1963年には、大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)のオーナー・永田雅一さんに熱望され、大毎の中核を担っていた山内一弘選手と1対1のトレードが成立し、大毎に移籍した小山さんですが、

永田オーナは、かつて阪神にいた青木一三スカウトを阪神に派遣し、下交渉に当たらせていたほか、永田オーナー自身も、直接、阪神の野田誠球団社長に、「小山をくれないか」「(その代わりに)欲しい選手がいたら誰でもやる」と熱心に電話をかけていたそうです。

というのも、大毎オリオンズは、1963年には、巨人から移籍した堀本律雄投手が15勝、坂井勝二投手が14勝、小野正一投手が13勝と、決して悪くはなかったのですが、17試合で9回にひっくり返されるなど、ここ一番で踏ん張る力に欠け、1960年にはリーグ優勝するも、その後は、4位、4位、5位と下降線をたどっていたそうで、永田オーナーは悔しい思いをしていたのだそうです。

阪神は貧打線に悩まされていた

一方、阪神タイガースも、当時のクリーンアップは、並木輝男選手(16本塁打)、遠井吾郎選手(11本塁打)、藤井栄治選手(8本塁打)と長打が少なく、爆発力では、巨人のON(王貞治選手、長嶋茂雄選手)、中日のジム・マーシャル選手、江藤慎一選手の足元にも及ばなかったそうで、

1962年には、小山さんと村山実さんの二枚看板でリーグ優勝を果たすも、打率はリーグ5位と貧打線に悩んでいたのだそうです。

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大毎オリオンズのオーナー・永田雅一の熱心な働きかけでトレードが成立していた

そんな中、阪神は、大毎オリオンズの永田オーナーから、山内一弘選手が阪神に入れば打線に核ができる、両球団の足りない部分が補い合えると、熱心に働きかけられ、当初は、タジタジだったそうですが、

(永田さんは、大言壮語な語り口から「(永田)ラッパ」と呼ばれていたそうですが、ここでも、ラッパが響き渡るかのように熱弁を振るっていたそうで、阪神から回答が得られないまま要請だけが重なっている状態の中、「永田ラッパ」の響きがマスメディアを賑わしていたのだそうです)

やがては、「本当に山内(一弘)をくれるなら」と、永田オーナーの行動力に巻き込まれる形で、小山さんと山内さんのトレードが成立したのだそうです。

(阪神も、自他共に先発ローテーション入りを期待された石川緑投手や、入団2年目のジーン・バッキー投手で小山さんの穴埋めができると考えたのだそうです)

「小山正明は永田雅一オーナーから大変気に入られていた!」に続く


(左から)山内一弘さん、阪神・野田誠三オーナー、大毎オリオンズ・永田雅一オーナー、小山さん。

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