大毎オリオンズの永田雅一オーナーからトレードを熱望されていることを知り、トレードを受け入れたという、小山正明(こやま まさあき)さんですが、実は、永田オーナーは、小山さんの投球技術だけではなく、小山さんの人間性も高く評価していたといいます。

「小山正明は大毎の永田雅一オーナーからトレードを熱望されていた!」からの続き

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非情さを感じさせず、時折、笑顔を見せるトレード発表だった

一般的に「トレード」というと、戦力外になった選手が放出されるというイメージがあり、非情さや悲劇のイメージがつきまとっていたそうですが、

大毎オリオンズのオーナー・永田雅一さんは、

日本では、チームが必要としない選手を出すのがトレードだと思っている。そんな時代遅れの感覚では、これから先、物事は進展しない

と、従来のトレードを批判していたそうで、

その言葉どおり、大阪・梅田にある阪神電鉄本社の会議室で行われた記者会見では、阪神の野田誠オーナー、大毎の永田オーナー、山内一弘さん、小山さんは、時折、笑顔も見せるトレード発表となったそうで、

山内さんが、

小山君のような投手の代わりに指名されたのは光栄。巨人を叩くために頑張りたい

と、言うと、

小山さんも、

長年いたチームやし、寂しさはあるが、どうしてもということで、意気に感じている

と、言ったそうで、

悲痛さは感じさせなかったといいます。

永田雅一はエースへのこだわりが強かった

実は、永田オーナーは、中日ドラゴンズに対し、山内一弘選手、榎本喜八選手という、三、四番打者の名をちらつかせて、中日の、権藤博投手、江藤慎一選手とのトレードを打診するも、中日には拒否され、結果、1963年12月初めに、葛城隆雄選手と前田益穂選手のトレードを中日との間で成立させていたのですが、

永田オーナーは、良い投手、もしくは、ガッツを表面に出す選手が欲しかったそうで(特にエースへのこだわりは大きかったそうです)、村山実投手とエースの座を分かつも、両雄並び立たずとの評判が絶えなかった小山さんに白羽の矢を立てたのだそうです。

永田雅一は小山正明の人間性を高く評価していた

というのも、永田さんは、小山さんの合理的で無理のない柔軟な投球フォームに投手生命の長さを予見していたほか、小山さんの人間性も高く評価していたそうで、

永田さんは、2リーグ制(1950年)になる少し前、フィクサーとそれに群がる選手たちの毀誉褒貶(きよほうへん)に悩まされた経験を持っており、それだけに、野球選手を見る目は厳しかったそうですが、小山さんの人間性は、ことのほか守られなければならないほど価値があるものと映ったのだそうです。

2リーグ制移行時には多くの選手が無秩序に移籍していた

ちなみに、日本のプロ野球は、1950年に、1リーグ制から2リーグ制となっているのですが、戦後の復興と共にプロ野球への関心が高まり、1949年7月に毎日新聞が球界参入を表明(新球団設立を打診)したことがきっかけだったそうで、

既存8球団のうち、参入を歓迎する球団・企業群のパ・リーグ(関西の私鉄が中心の、南海、阪急、大映、東急)と、参入に反対する球団・企業群のセ・リーグ(巨人、中日、太陽ロビンス、大阪(阪神))に分裂し、従来の日本野球連盟が解体されたのだそうです。

ただ、選手たちの移籍は、ほとんどが企業陰謀と黒幕フィクサーによる無秩序のうちになされていたそうで、「FA」「ドラフト」などがまだない時代、選手の去就は無秩序のまま放置され、選手たちの中には、この無秩序を利用していた者もいたのだそうです。

(つまり、金銭のやり取りがあったそうです)

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阪神は土壇場でセ・リーグを選択し、その報復で毎日新聞から別当薫、土井垣武ら主力選手を大量に引き抜かれていた

そんな中、阪神は、当初、他の在阪私鉄企業とともにパ・リーグ寄りの姿勢を示していたにもかかわらず、ドル箱の巨人戦を維持したかったため、土壇場でセ・リーグを選択しているのですが、

毎日から、報復として、別当薫選手、土井垣武選手ら主力選手を大量に引き抜かれ、戦後数年間「ダイナマイト打線」と形容され恐れられたチーム力は急速に弱体化していったのだそうです。

(一方、毎日は、パ・リーグの初代王者となり、日本シリーズも制しています)

「小山正明が山内一弘とトレードになったのは貧打線が原因だった!」に続く


「世紀のトレード」と言われた記者会見にて。(左から)山内一弘さん、阪神・野田誠三オーナー、大毎オリオンズ・永田雅一オーナー、小山さん。

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