1954年のシーズン終了後に松木謙治郎監督が辞任した際、阪神タイガースの後任監督に推薦されるも、野田誠三オーナーの意向で岸一郎さんが後任監督となり、監督になり損ねた、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんですが、1955年5月には、早くも岸監督が更迭され、ついに監督に就任。しかし、その独善的な行動は、ナインの反感を買ったといいます。

「藤村富美男は松木謙治郎監督に推薦されるも監督になり損なっていた!」からの続き

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岸一郎監督辞任後に選手兼任代理監督⇒選手兼任監督に就任

岸一郎監督が、1955年のシーズン途中、5月下旬に更迭されると、その後は、藤村さんが選手兼代理監督に就任し、翌1956年には、正式に選手兼任監督に就任したそうで、7月から8月にかけて勝ち進むと、首位に立ち、8月11日には巨人に5ゲーム差を付けていたそうですが・・・

ほどなくして負け込み、巨人に首位を奪われてしまったそうです。

(結局、このシーズンは巨人に4.5ゲーム差をつけられ2位に終わったそうです)

「代打ワシ」

ちなみに、1956年6月24日の広島カープ戦で、0対1とリードされていた9回裏、二死満塁の場面、三塁ベースコーチに立っていた、選手兼任監督だった藤村さんは、「ワシが代打や」と球審に声をかけて打席に入ると、左翼に豪快な代打逆転サヨナラ満塁本塁打を叩き込み、試合を決めたそうで、

この「代打ワシ」のエピソードは、現在もファンの間で語り継がれているそうです。

(これが藤村さんの生涯最後のホームランとなったそうです)

青木一三スカウトが野田オーナーに若手選手が待遇面で不満を感じていると伝えていた

さておき、そんな中、マネージャー兼スカウトの青木一三さんが、阪神甲子園球場でナイターが行われた際、野田誠三オーナーに、(田中義一球団代表と阪神電気鉄道本社から出向した下林良行常務の間に意見の違いが多く)思うように働けないと、辞意を伝えたそうですが、その場で野田オーナーに説得され、辞表を取り下げたそうです。

ただ、その際、青木さんは、安い俸給で獲得した、吉田義男さん、小山正明さん、三宅秀史さんら若手選手が、主力になっても一向に待遇が良くならないことに不満を感じているとして、

このまま放っておいたら、暮れに事件が起きますよ

と、言ったといいます。

阪神球団は藤村富美男の低い年俸を基準に他の選手の金額を決定していた

実は、吉田義男さんら若手選手が主力になっても一向に待遇が良くならなかったのは、阪神球団が、藤村さんの俸給を基準に他の選手の金額を決定していたからで、

(人の好い藤村さんは、契約更新の際には、球団の提示する低い年俸を受け入れていたのだそうです)

選手間では、藤村さんに対する不満が募っていたのだそうです。

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スター性の抜けきらない独善的な采配で選手たちの反感を買っていた

また、初代ミスタータイガースとして人気のあった藤村さんは、スター意識の抜けきらない独善的な采配をしたそうで、選手兼任監督をいいことに、打てる投手の時だけ出場し、打てない投手の時には出場しなかった(調子のいい時は代打で出場したそうです)ほか、

選手同士でやったヒットエンドランの成功を、あたかも自分が出したサインだと言っていたこともあったそうです。

そして、これまでにも、ファンを意識して、打撃練習はわざと遅く来て、一人だけ長々やるなど、数々のスタンドプレーをしていたそうで、快く思わない選手たちの不満が蓄積し、ナイン全体の反感を買うようになっていたのだそうです。

「藤村富美男は監督時代に阪神ナインから「監督退陣要求書」を出されていた!」に続く

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