1993年オフ、阪神タイガースから戦力外通告を受け、現役を続行するため、阪神を退団すると、オリックスの仰木彬監督に誘われてオリックスに移籍した、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、1995年に現役を引退した時も、再び、仰木監督から指導者として誘ってもらうと、その後は、阪神の吉田義男監督に誘われ、阪神の二軍助監督兼打撃コーチに就任しています。

「岡田彰布の現役(プロ野球選手)時代の成績は?」からの続き

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オリックスの仰木彬監督に誘われ二軍助監督兼打撃コーチに就任

1993年オフ、阪神タイガースから戦力外通告を受けた時には、「うちで燃え尽きたらどうや」と、オリックスの仰木彬監督から声を掛けてもらい、オリックスに移籍すると、1995年、オリックス優勝のタイミングで現役を引退した岡田さんですが、

仰木監督からは、再び、「いずれ阪神に戻るやろうが、うちで指導者の勉強をしていけや」と誘ってもらったそうで、1996年には、オリックスの二軍助監督兼打撃コーチに就任し、2年間、選手の見極め方と育成法を勉強しており、

オリックス時代のチームメイトだった藤井康雄さんは、

当時のオリックスは戦力的に劣っていたので、仰木監督は膨大なデータに基づいて選手を起用し、1シーズンで100通りものオーダーを組みました。

現在の阪神は4番の大山悠輔をはじめとした中心選手がいるのでスタメンは固定されていますが、島本浩也ら左腕のリリーフなど細かな投手起用で勝ちをもぎ取る野球は、仰木マジックに通ずるものがあります

と、語っています。

阪神タイガース吉田義男監督の要請で二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰

そんな岡田さんは、1998年には、阪神タイガース吉田義男監督の要請により、二軍助監督兼打撃コーチとして、古巣・阪神に復帰すると、翌年1999年には、野村克也監督のもと、二軍監督兼打撃コーチに就任。

2000年には、二軍監督(専任)となると、二軍監督時代は2度のファーム日本選手権優勝を果たしています。

(阪神・久万(くま)俊二郎オーナーが、岡田さんを「ウチの子です」と言い、阪神に復帰させるよう強く促したとも言われているのですが、久万オーナーは、東京六大学のスターだった岡田さんをいずれ監督にしたいと熱望していたといいます)

二軍監督時代から選手を育てながら勝つことを意識していた

ちなみに、1999~2000年、阪神タイガースでコーチを務めた黒田正宏氏は、

岡田はよく、『ファームでは、いかに辛抱して選手を使うかが大事』と語っていました。彼は2002年まで二軍監督を務めましたが、その時期から、“将来的に一軍の監督になった時のことを考えて、選手を育てながら勝つこと”を意識していた

と、語っており、

この頃からすでに、岡田さんには、指導者としての心構えができていたようです。

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一軍監督になってからもほぼ全ての二軍の試合をチェックしていた

また、岡田さんの阪神監督第一次政権(2004~2008年)時代、投手コーチを務めた中西清起氏も、

一軍でチャンスを与えて辛抱強く使い、それでも結果が出ないならファームに落とし、新しい別の戦力を引き上げる。この繰り返しが岡田さんのスタイルです。

二軍の視察を決して欠かすことなく、一軍以外の選手のことも深く把握していました。その姿勢はずっと変わらず、現在(2023年)はタブレットでほぼすべての二軍の試合をチェックしているようです。

今季(2023年)の阪神は、村上頌樹をはじめ昨年までファームで埋もれていた選手の活躍が際立ちますが、岡田さんの手腕によるところが大きいでしょう

と、語っています。

「岡田彰布は2005年「JFK」で阪神をリーグ優勝に導いていた!」に続く

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