1979年には、打率2割9分3厘、42本塁打(リーグ2位)、113打点(打点王)という堂々たる成績で、4年ぶり2度目となる広島カープのリーグ優勝と、球団初となる日本一に大きく貢献した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、翌1980年は、マークが厳しくなり、頭部死球を受けてしまうのですが、幸い、後遺症はなく、この年は、さらにパワーアップして、打率3割3分6厘(リーグ3位)、44本塁打(リーグ1位)、112打点(リーグ1位)で、本塁打王と打点王の二冠王となるほか、得点、塁打、四球、長打率、出塁率のすべてでリーグトップを記録する素晴らしい成績で、広島カープの連覇に大きく貢献します。
「山本浩二は王貞治を抑えて本塁打王になっていた!」からの続き
山本浩二は西井哲夫投手に内角を攻められていた
1980年7月15日、2位のヤクルトとの3連戦初戦、2対1との1点リードで迎えた9回、一死の場面で、衣笠祥雄選手が2ランホームランを放ち、広島が4対1と3点差にリードを広げると、山本さんを打席に迎え、ヤクルトはピッチャーが代わり(3番手)、西井哲夫投手となったそうです。
すると、西井投手は、厳しい内角攻めをしてきたそうですが、山本さんは、山内一弘さんから教わった打法でボール2個くらい内側の球でも打ちに行き、左翼ポールからほんの数十センチという大ファールもあったそうです。
(山本さんはこの時点で、24本塁打、64打点はともにリーグトップで、打率はリーグ3位の3割2分7厘という素晴らしい成績だったことから、第1打席から4打席連続四球と勝負を避けられていました。ただ、外角に外すのではなく内角に外されていたそうです)
山本浩二は頭部死球で慶応病院に直行するも検査の結果は異常なしだった
しかし、フルカウントで迎えた6球目、こればかりは打つことも避けることもできず、投球は左側頭部を直撃してしまい、山本さんは神宮球場近くの慶応病院に直行。
すると、幸い、エックス線や脳波の検査の結果に異常はなく、翌16日の再検査も問題なかったそうで、「1日だけ大事を取ったほうがいい」との医師の指示に従って、この日(ナイター)は9回の守備だけの出場にとどめたのだそうです。
(ちなみに、山本さんが死球を受けて倒れ込んだ横では、乱闘劇が始まり、先発して7回まで投げた広島の福士敬章投手がヤクルトの大矢明彦捕手を蹴って退場になっています)
1980年7月15日、ヤクルト戦で頭部死球を受ける山本さん。
山本浩二は(当時の)セ・リーグタイ記録の7打席連続四死球を選んでいた
そして、山本さんは、静岡で行われた17日の試合でスタメン復帰すると、3打数2安打1打点、2四球と、頭部死球の影響を全く感じさせない活躍をしているのですが、
実は、この試合の第一打席は四球で、13日の大洋(現・横浜)戦の最終打席から7打席連続四死球となっていたそうで、(当時の)セ・リーグタイ記録となっています。
山本浩二は1980年は本塁打王と打点王の二冠に加え、得点、塁打、四球、長打率、出塁率でリーグトップの成績で広島カープの連覇に大きく貢献していた
そんな山本さんは、その後も、幸い、頭部死球の後遺症はなく、好調をキープすると、この年(1980年)、最終的には、打率3割3分6厘(リーグ3位)、44本塁打(リーグ1位)、112打点(リーグ1位)で、本塁打王と打点王の二冠王となるほか、得点、塁打、四球、長打率、出塁率のすべてでリーグトップの成績で、広島カープを2年連続のリーグ優勝に導き、初優勝した1975年以来、3度目のMVPにも選ばれたのでした。
ちなみに、近鉄との日本シリーズでは、広島カープが4勝3敗で勝ち、日本一となっているのですが、山本さんは、2本塁打するも、打率2割3分1厘と、ペナントレースほどの活躍はできませんでした。
(この年、広島カープは、5月から首位をキープし、マジック2で迎えた10月17日の阪神戦で6対3と勝利してマジック1とすると、対象のヤクルトがナイターの中日戦で1対4で敗れたことにより優勝を決めているのですが、山本さんら広島ナインは、新幹線の中で優勝を知ったそうで、車内は大盛りあがりしたそうです。また、連覇はセ・リーグ誕生31年目にして巨人以外初めてのことだったそうです)
「山本浩二は持病の腰痛をかばいつつ本塁打王(4度目)を獲得していた」に続く
1980年11月2日、2年連続の日本一を達成し胴上げされる古葉竹識監督。