中日監督就任1年目の2004年、優勝するため、現有戦力の10%の底上げをするべく、春季キャンプでは選手たちに徹底的に練習させたという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんですが、開幕戦では、なんと、3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎投手を開幕投手に起用しています。

「落合博満は監督1年目の春季キャンプでコーチを選手の見張り番にしていた!」からの続き

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川崎憲次郎はヤクルトスワローズでエースの地位を確立し、破格の待遇で中日に移籍していたが・・・

まずは、川崎憲次郎投手について簡単にご紹介すると、

川崎投手は大分県津久見高校からドラフト1位でヤクルトスワローズに入団すると、12年間で88勝を挙げるほか、先発投手として最高の栄誉である沢村賞も受賞するなど、エースの地位を確立します。

そして、2000年、30歳の時、当時、中日ドラゴンズの監督だった星野仙一さんから「一緒に巨人を倒そう」と誘われると、その言葉に共鳴してFA権を行使し、中日に移籍。

4年総額8億円という巨額の契約に加え、ドラゴンズのエースナンバーである背番号20を与えられる破格の待遇だったのですが・・・

川崎憲次郎は中日に移籍1年目のオープン戦で肩を壊し、そのまま一軍で登板できないまま3年が経過していた

川崎さんによると、2001年シーズン直前のオープン戦、ある時、一球を投げた瞬間、肩の奥の方で何かが砕けるような音がし、翌日から右肩が上がらなくなり、投げるどころか、Tシャツを脱ぐことすらできなくなったそうで、

その後、懸命にリハビリに励むも痛みは収まらず、気がつくと一軍で投げられないまま3年が経過していたそうで、そんな中、契約最後の4年目を前に、落合さんが新監督に就任したのでした。

(川崎投手は、いつしか「不良債権」と呼ばれるようになるなど、球団の暗部として扱われるようになったほか、オールスターゲームの人気投票で1位に選ばれるなどの嫌がらせ(「川崎祭り」と呼ばれました)を受けました)

川崎憲次郎に電話で直接、開幕投手を告げていた

そんな中、川崎さんによると、2004年1月2日、落合さんから電話がかかってきて、

2004年の開幕投手は川崎、お前でいくから

と、まるで当たり前のことを話すような淡々とした調子で告げられたそうで、

最初は何を言われているのかすぐに理解できなかったそうですが、頭の中でグルグルと思いを巡らせ、ようやく開幕とは4月2日の広島カープとの一軍オープニングゲームのことだと(頭では)分かったのだそうです。

ただ、40人もの投手がいるチームの中で、なぜ一軍で3年も投げていない自分が開幕投手なのか、理解できずに戸惑っていると、

落合さんに、

どうだ?やれるか?

と、言われたそうで、

川崎さんは、(まだ、疑問は頭の中を駆け巡っていたものの)次の瞬間、

いけます!ありがとうございます!

と、本能的に答えたのだそうです。

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川崎憲次郎はなぜ自分が開幕投手に選ばれたのか分からないまま引き受けていた

すると、(川崎さんによると)落合さんからは、開幕までのスケジュールとして、2月1日に紅白戦に先発し、それ以降は10日おきに登板しながら開幕へ向かうという計画を伝えられ、

もし無理だと思うなら、10日前までに言ってこい

と、言われ、電話を切られたそうですが、

川崎さんは、なぜ自分が開幕戦の先発に選ばれたのか疑問を持ちつつも、全てをかけるつもりでこの突然の打診を引き受けたのだそうです。

「落合博満は川崎憲次郎を開幕投手にするも戦力外通告していた!」に続く

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