戦後、復員し、中部日本軍(後の中日)に復帰するも、応召(召集に応じて軍隊にはいること)中に肩を痛め、投手として十分な活躍ができなかったうえ、チーム内が内紛状態で嫌気が差していた中、かねてより、父親のように慕っていたという、元同僚で先輩の新球団「ゴールドスター」の坪内道展監督に、投手ではなく、打者として再生させるという条件付きで入団を誘われ、「ゴールドスター」に移籍したという、西沢道夫(にしざわ みちお)さんは、猛特訓の末、メキメキと打者としての腕を上げたそうですが、「金星スターズ(ゴールドスターから改称)」が「大映」に買収されたことで退団すると、西沢さんの打撃に目を留めていた、古巣・中日ドラゴンズの天知俊一監督から熱心に復帰を要請され、中日に復帰。すると、たちまち、打者としての才能を開花させたといいます。

「西沢道夫は復員後ゴールドスターで打者に転向していた!」からの続き

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阪神の別当薫選手の打撃を参考にしていた

1946年のシーズン途中、ゴールドスター(金星スターズ)に移籍するに伴い、打者に転向した西沢さんは、1日1000回の素振りを敢行するなど、猛練習に明け暮れていたそうですが、

1948年には、まだ新人だった大阪(阪神)タイガースの別当薫選手の打撃を参考に、自身の打撃改造に取り組むと、次第にパンチ力と正確さを身につけ、長打率が飛躍的に向上したそうで、この年には、本塁打16本と、自身初の二桁本塁打をマークしたそうです。

「大映」に買収されたことをきっかけに「金星スターズ」を退団

しかし、1948年12月21日、「金星スターズ(ゴールドスターから改称)」が、プロ野球経営に意欲を燃やしていた「大映」の永田雅一社長が興した新球団「大映」に買収されると、

もともと、中部日本軍(後の中日)の球団代表だった赤嶺昌志氏が球団代表を解任された時、赤嶺氏に追従して中部日本軍を退団した7人の選手が、「大映」に入団したそうで、

これに反対する多くの選手達が、

ラッパは嫌だ!

赤嶺の息のかかっているものとプレーするのは嫌だ!

と、言って、退団したそうで、

西沢さんも坪内監督とともに退団したそうです。

(「ラッパ」とは「大映」の永田雅一社長のことで、永田社長は大言壮語の語り口から「永田ラッパ」と呼ばれていたそうです)

天知俊一監督からの熱戦な誘いで中日ドラゴンズに復帰していた

そんな中、西沢さんは、1949年、中日ドラゴンズの天知俊一監督から打撃を評価され、熱心に復帰を要請されたそうで、

西沢さんが、

坪内さんも一員に加えてください

と、懇願すると、

結果、坪内さんと共に金星スターズ(ゴールドスター)でお世話になったという三富常雄投手も含めて、3人で中日に復帰を果たしたのだそうです。

1952年には首位打者と打点王の2冠王

すると、西沢さんは、この年(1949年)、4月には25試合連続安打、5月には11試合連続打点(当時の日本記録)するなど、最終的に、3割9厘、37本塁打、114打点、

翌1950年は、打率3割1分1厘、46本塁打(満塁ホームラン5本を含む)、135打点、

1952年には、打率3割5分3厘、20本塁打、98打点で、首位打者と打点王の2冠王、

1954年には、打率3割4分1厘、16本塁打、80打点の活躍で、中日初のリーグ優勝&日本一に貢献したのでした。

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低迷していた中日を立て直すべく天知俊一監督に復帰を要請されていた

ちなみに、1946年シーズン途中、西沢さんがゴールドスターに移籍した後の中部日本軍(後の中日)は、1947年は、杉浦清兼任監督と投手捕手の二刀流で活躍した服部受弘選手らが奮闘するも、翌1948年には、最下位に沈み、1948年オフには、杉浦兼任監督が、明治大学の先輩・天知俊一氏に監督就任を依頼していたそうで、

天知監督は、監督に就任と同時に、明治大学から教え子で右腕の杉下茂投手を中日に入団させ、新人ながら戦力不足の中日で実戦経験を積んでいた、杉山悟選手、原田徳光選手、国枝利通選手などの若手選手を鍛えるほか、阪急から捕手の野口明選手を獲得していたそうで、

西沢さんは、そんな中、天知監督からに復帰を要請されていたのでした。

(野口明選手は、1937年秋には東京セネタースで投手として最多勝、1943年には西鉄軍(戦後の西鉄とは別チーム)で一塁手として打点王に輝くなどオールマイティーの選手だったそうです)

「西沢道夫は一塁から外野への転向を通告され失踪していた!」に続く

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