西鉄の三原脩監督に勧められ、高卒で西鉄ライオンズに入団した、中西太(なかにし ふとし)さんは、1年目には新人王を獲ると、2年目には、本塁打王と打点王の2冠王と史上最年少でトリプルスリーを達成しているのですが、その打撃は、庭の土の上で裸足でバットを振り続け、試行錯誤の末に編み出したものだったそうです。

「中西太は三原脩監督に誘われ高卒で西鉄ライオンズに入団していた!」からの続き

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プロ1年目は新人王、2年目は本塁打王と打点王の2冠王とトリプルスリーを達成していた

高校卒業後の1952年、西鉄に入団した中西さんは、開幕から7番・サードで起用されると、レギュラーとして111試合に出場し、打率2割8分1厘、12本塁打、65打点、16盗塁の活躍で、新人王に選ばれているのですが、

2年目には、7月から4番に抜擢され、いきなり、打率3割1分4厘、36本塁打、36盗塁という成績で、本塁打王と打点王の2冠王と史上最年少のトリプルスリーを達成しており、

中西さんは、

トリプルスリーじゃ(笑)。足は速かったからね。でも『三番、四番を打つんだったら、ケガするからムリな盗塁はやめなさい』と、(西鉄の監督だった)三原(脩)さんに言われて、その後は控えた。

オリックスのコーチをしているとき、イチローに『ワシも若いときは、お前と同じくらい速かったんや』と言ったけど、信じてくれん。(コーチ時代のように)ずっと肥えてたわけやない、昔は痩せとったんじゃ、って(笑)

と、語っています。

土の上で裸足でバットを振っていた

そんな中西さんは、プロ入り後、レベルの高さを痛感したことと、身長1メートル72センチとプロの中では小柄だったことから、ひたすらバットを振っていたそうで、試合が終わってからも、帰宅後、庭の土の上に裸足で立ち、バットを振り続けたそうですが、

下半身を使って振っていたことから、両手と両足にマメができ、血が滲んでいたこともあったのだそうです。

豪快な打撃は試行錯誤の末に編み出したものだった

その甲斐あってか、新人王を獲得した中西さんですが、それでは飽き足らず、1年目のオフには、飛距離と確実性を追究し、フォームを根本から作り変えていたそうで、

88.9センチと長めのバットで、ボールをギリギリまで引き付けて仕留める打撃を目指すと、それには、スイング速度の向上が不可欠だったことから、全身をいかにバランスよく、素早く動かし、力をバットに伝えるかを探り続けていたそうですが、

そんな中、ゆったりと構えてボールを待ち、打つ一瞬に力を集中させ、全身の力をバットに伝えるという打撃の極意を見出したのだそうです。

推定飛距離160メートルの大ホームランを打っていた

ちなみに、中西さんは、2年目の1953年8月29日、平和台球場での大映戦で、林義一投手から、推定飛距離160メートルの大ホームランを放っており、打球はバックスクリーンのはるか上(9メートル上だったと言われています)を越え、さらに上昇を続けて消えていったそうですが、

中西さんは、

(林投手は)サイドからの外へ逃げる変化球で勝負するタイプ。あのときもそのボールを投げてきた。それが、外へ逃げずに、やや真ん中近くに入ってきた。だから泳がされずに芯でとらえることができた。

打球はセンターへのやや低いライナー。私は必死で走りましたよ。まさかホームランになるなんて思ってもいないから。そうしたら、途中で大歓声が上がるんだ。打球はフェンスを越えたらしい。

それも、かなり大きなホームランだったらしい。でも、私は全力疾走中だから見ることができなかった。あの試合で、あのホームランを見てなかったのは、私ひとりだったかもしれませんね(笑)

と、語っています。

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ライナーが強烈過ぎて相手チームのショートが打球を膝に直撃し引退していた

また、西鉄の1年後輩の豊田泰光元遊撃手は、

あの一発クラスのホームランを(中西)太さんは何本も打っている。左中間場外に飛ばした打球は、当時は照明が暗かったし、どこまで飛んでいったか分からんのだよ。あの一発より大きいものもあったハズ

巨人の王貞治さんのコーチを務めていた荒川博さんも、「左なら王貞治、右では中西太」と言い、

彼は体をものすごい勢いで回転させるから、打球が速い上によく飛ぶ。文字通りの大砲でした。たしか1954年か55年頃、オリオンズに有町昌昭というレギュラー格のショートがいたんですが、中西のライナーを足に受け”オレはあんなの捕る自信がない”と言って辞めていった。それくらい、ケタ違いの打球を打っていましたね

と、中西さんの打球の凄まじさを証言しています。

(中西さんのホームランはライナー性で、そのほとんどが、(90メートルフェンスぎりぎりのホームランというのはなく)スタンド上段に突き刺さっていたそうで、フルスイングでどこまで飛ぶかというバッティングだったそうです)

「中西太は兼任監督就任2年目で西鉄ライオンズを優勝に導いていた!」に続く

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