1982年、1983年と、西武ライオンズの日本一に大きく貢献した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、1984年も、4月には、リーグトップの27打点を記録したそうですが(打率2割8分6厘、5本塁打)、2年前から症状が出始めていた花粉症がひどくなっていたそうで、ゴールデンウィーク明けには、花粉症の症状は緩和したものの、今度は体が動かなくなり、スタンド中段まで行ったと思った打球がフェンス際で失速するようになり、引退を考えるようになったそうです。
「田淵幸一は巨人との日本シリーズで江川卓と西本聖からホームランしていた!」からの続き
ひどい花粉症に見舞われていた
田淵さんは、阪神入団2年目にコーチの藤井勇さんに土台を作ってもらい、6年目に山内一弘さんから内角打ちを教わったそうですが、1984年、アメリカ・アリゾナ州メサで行われた1次キャンプでは、ついに、理想の形でバッティング出来るようになり、打撃を極めた気がしたそうで、
1984年3月10日、松山で行われた広島とのオープン戦で、左腕・川口和久投手が投げた、内角低め地上スレスレに曲がり落ちるカーブをレフト席に運び、我ながら芸術的な一発だなと思いながら眺めていたそうです。
しかし、その直後、鼻水が止まらなくなるほか、のどが痛くなり、目がチカチカとするなど、花粉症の症状に見舞われたそうで、
実は、田淵さんは、その2年前から花粉症の症状が出るようになっていたそうで、この年は特にひどく、所沢に帰ってから5日間静養し、開幕にはなんとか間に合ったものの、試合直前まで、ロッカーで横になる、という状態だったのだそうです。
打球がフェンス際で失速するようになる
それでも、4月は、打率2割8分6厘、5本塁打、27打点(リーグトップ)と好調をキープしていたのですが、ゴールデンウィーク明けには、花粉症の症状は緩和したものの、今度は体が動かなくなり、スタンド中段まで行ったと思った打球がフェンス際で失速するようになったそうで、
(頭には知らないうちに10円玉大のハゲができていたそうです(円形脱毛症))
6月には、スタメンをはずれることが多くなったそうで、引退を考えるようになったのだそうです。
甲子園でのオールスターで張り詰めていた糸がプツンと音を立てて切れていた
そんな中、田淵さんは、監督推薦でオールスターゲームに選ばれたそうですが、後楽園での第1戦では、代打で1打席だけ立つと、ピッチャーゴロに倒れるも、
第2戦の甲子園球場では、ホームラン競争に出場し、懐かしい声援を受けながら、10スイング中6本をスタンドインさせたそうで、
9回には、投手の東尾修さんに打順が回ってきたため、代打の準備をしていたそうですが・・・
パ・リーグ広岡達朗監督は動かず、東尾さんがそのまま打席に入ったそうで、その瞬間、田淵さんの中で、張り詰めていた糸がプツンと音を立てて切れたのだそうです。
「田淵幸一は引退表明した日に夜のヒットスタジオに生出演していた!」に続く