満洲から引き揚げ後は、3度の食事にも事欠くような貧しい生活を強いられるも、中学生の時には、野球部で頭角を現し、中学3年生の時にはエースとして活躍したという、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、中学卒業後は、野球の特待生として、徳島商業高等学校に進学したといいます。

「板東英二は中学の時から野球部のエースとして活躍していた!」からの続き

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野球の特待生として徳島商業高等学校に進学するも・・・

中学3年生の時には、野球部のエースとなり、61連勝を記録したという板東さんは、そんな活躍ぶりが関係者の目に留まり、野球の特待生として徳島商業高等学校に進学することになるのですが・・・

実は、板東さんは、子供の頃から勉強が好きで、本当は、奨学金をもらって大学を卒業し、小学校の先生になりたいと思っていたそうで、普通高校に進学したかったのだそうです。

(満洲からの引き揚げ船の中で、周囲の大人から掛け算や漢字を教わったことで、勉強が好きになったのだそうです)

ただ、家が貧しかったことで、普通高校への進学はあきらめざるを得ず、中学卒業は、集団就職をする予定となっていたそうで、そんな中、徳島商業高等学校から学費免除でスカウトされたことから、お父さんが勝手に入学を決めたそうで、

板東さんも、

野球だったら高校に行ける

と、思い、徳島商業高等学校に進学することで、あきらめていた小学校の先生になる夢の可能性を見出したのだそうです。

野球部では理不尽に殴られ何度も退部届を出していた

こうして、板東さんは、中学卒業後の1956年、徳島商業高等学校に進学し、野球部に入部したのですが、来る日も来る日も、朝6時から夜11時までの厳しい練習が続いたそうで、疲れて勉強どころではなく、授業中は寝てばかりだったそうです。

しかも、監督やコーチの言うことは絶対服従で、言うことを聞かないと、とにかく殴られたそうで、そんな理不尽さに耐えかねた板東さんは、何度も退部届を出しに行ったそうですが、聞き入れてもらえなかったそうで、

(特待生として入部したため、退部できなかったとのこと)

仕方なく猛練習に励むと、同年には、エースとして、秋季四国大会に勝ち進んだものの、第1回戦で高知市立高知商業高等学校に延長11回でサヨナラ負け。

翌年の1957年、高校2年生の夏の甲子園県予選では、準々決勝で撫養高(現在の徳島県立鳴門渦潮高等学校)に敗退したのだそうです。

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本当の誕生日は違う日だった

そして、同年秋には、板東さんは主将(キャプテン)に就任したそうですが、その少し前に、誕生日が問題になっていたといいます。

ある日のこと、板東さんは、野球部の部長に生年月日を聞かれたことから、

昭和15年(1940年)3月31日です

と、答えたそうですが、

部長には、

裁判所に行くから

と、言われのだそうです。

というのも、板東さんは、満洲から引き揚げてきた1947年に、1年遅れの7歳で小学校に入学していたそうで(通常なら6歳で入学)、

このままでいくと、高校2年生のうちに18歳になってしまい、日本高等学校野球連盟(高野連)による出場規制により、高校3年生の時には、公式戦に出られなくなってしまうとのことで、

(当時は、引き揚げ者も多く、板東さんのような状況の人がたくさんいたそうで、高野連でも問題になっていたそうです)

部長と徳島裁判所に行き、誕生日を1週間ずらした「4月5日」に登録してもらったのだそうです。

(日付は部長が決め、手数料(50円)も部長が出してくれたそうです)

ちなみに、板東さんは、子供の頃、家が貧しく、誕生日のお祝いをしてもらったことがなかったそうで、そのせいか、誕生日に関心がなく(そのため、兄弟の誕生日も知らないそうです)、誕生日を変えることに、特にこだわりはなかったそうです。

「板東英二の甲子園での奪三振記録が凄すぎる!」に続く

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