終戦後、満洲から命からがら帰国したという、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、お父さんの仕事が安定せず、3度の食事も事欠く極貧生活を余儀なくされたそうですが、そんな中、野球を始めると、中学生の時には頭角を現すようになったといいます。

「板東英二は満洲生まれ!幼少期には壮絶な体験をしていた!」からの続き

Sponsored Link

引き揚げ後は神戸市宮ノ下⇒徳島県板野郡板東町

過酷な引き揚げ船の旅を続け、満洲を出発してから1年半後、ようやく博多に到着した板東さんは、1947年4月には、お母さんの実家がある神戸市宮ノ下に移り住み、神戸市立妙法寺小学校に入学したそうですが、

お父さんが生まれ故郷の徳島の引き揚げ者収容所にいることが分かったため、神戸市立妙法寺小学校には入学式に1日出ただけで、すぐに、お父さんのいる徳島県板野郡板東町に引っ越したそうです。

(お父さんは軍人で、満洲では軍務に就いており、軍務が解かれた後、復員したと言われています)

引き揚げ後は極貧生活

こうして、徳島に移り住んだ板東さん一家は、元ドイツ軍の捕虜収容所(旧板東俘虜収容所)を転用した引き揚げ者用住宅の6畳一間で、一家6人での生活を始めたそうですが、お父さんの仕事は安定せず、3度の食事にも事欠く、とても貧しい暮らしを余儀なくされたそうです。

(そのため、まだ幼い板東さんは、よその畑の作物を失敬したり、うさぎに石を投げて捕まえるなど、自給自足の生活をしていたそうです)

Sponsored Link

中学時代は野球で頭角を現す

そんな板東さんは、小学校3年生の時には、アメリカからの救援物資の中に入っていた中古のグローブを見つけて野球を始めたそうで、中学では野球部に入りたかったそうですが、家が貧乏だったため、グローブやスパイクを買うことができず、バレーボール部に入ったそうです。

ただ、中学2年生の時には、部室に余っているグローブを貸してもらえることになり、野球部に入部することができると、

(「偶然、野球部に欠員が出た」「先輩に誘われた」「学校に野球道具が送られてきた」等の話も)

たちまち頭角を現し、地肩の強さが認められてショートとしてレギュラーになり、中学3年生の時には、体力もあったことから、ピッチャーに転向すると、エースになったそうで、

(中学時代には、61連勝を記録したそうです)

後に、板東さんは、

当時は自給自足でウサギに石を投げて捕まえていたから、スピードもコントロールもあったんです

と、語っています。

(ちなみに、グローブは貸してもらえても、スパイクはなかったことから、なんと、草履をはいて野球をしていたのだそうです)

「板東英二は野球特待生として徳島商業高校に進学していた!」に続く

Sponsored Link