1935年、大阪(阪神)タイガースに入団すると、入団1年目の1936年には、打者として本塁打王、2年目の1937年には、投手としてノーヒットノーランを達成するほか、

その後も、96センチ近い長尺バット”物干し竿”を使ってホームランを量産するなど、観客を熱狂させるプレーを繰り広げ、絶大な人気を誇ったという、藤村富美男(ふじむら ふみお)さん。

今回は、そんな藤村富美男さんの若い頃(高校野球時代)から現役引退までの活躍や経歴を時系列でご紹介します。

藤村富美男

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藤村富美男は高校時代に4番打者兼エースとして活躍し”甲子園の申し子”と呼ばれていた

藤村富美男さんは、もともとはピッチャーとして野球を始めたそうですが、

1932年、高校2年生の時、4番打者兼エースとして、広島大会で、広島商業学校の鶴岡一人さん、広陵中学校の濃人渉さん、門前眞佐人さん、白石勝巳さんなど強豪校の強打者を抑えて優勝するなど、大活躍したそうです。

そんな藤村富美男さんは、甲子園へは、1932年から1935年(最上級生)までの4年間で計6回(夏の甲子園4回、春の甲子園2回)出場しているのですが、

1934年夏の甲子園では、熊本県立工業学校を2安打完封で下し、全国制覇を達成。

甲子園では、中等野球史に名を残す名投手たちと熱戦を繰り広げたことから、”甲子園の申し子”と呼ばれるようになったそうです。

藤村富美男は19歳の時に阪神タイガースに入団していた

藤村富美男さんは、1935年11月に高校を卒業した後は、法政大学に進学するつもりでいたそうですが、

設立したばかりの大阪(阪神)タイガースから熱心な誘いを受けると、お父さんとお兄さんに強引に勧められ、大阪(阪神)タイガースに入団したそうです。

藤村富美男は20歳(阪神タイガース入団1年目)で本塁打王、21歳(阪神タイガース入団2年目)でノーヒットノーランを達成していた

すると、阪神入団1年目の1936年(藤村富美男さん20歳)には、打者として、いきなり本塁打王に輝き、

2年目の1937年には、投手としてノーヒットノーランを達成しています。

藤村富美男は31歳(阪神タイガース入団12年目)の時に打点王となり阪神の優勝に大きく貢献していた

しかし、1939年に太平洋戦争が始まると、藤村富美男さんは2回も応召され、終戦後の1945年8月15日、ようやく、広島県・呉の実家に戻ったそうです。

それでも、同年11月23日、戦後初のプロ野球公式戦で復帰すると、明治神宮野球場の東西対抗戦で西軍として出場した際には、5回表、白木義一郎投手から戦後プロ野球初のセンターオーバーのランニングホームランを放ち、

翌年の1946年には、5番打者で打率.323を記録するほか、戦後の投手不足を補うため、投手としても、13勝2敗、リリーフでは8勝0敗と活躍。

入団12年目の1947年、31歳の時には、36二塁打で前年の自身の記録を更新するほか、打点71で打点王に輝く活躍で、不動の4番打者に定着し、チームの優勝に大きく貢献したのでした。

藤村富美男は32歳(阪神タイガース入団13年目)の時に”物干し竿”と呼ばれる長いバットでホームランを量産していた

また、入団13年目の1948年、32歳の時には、関東のスター選手(赤バット・川上哲治選手、青バット・大下弘選手)に対抗し、ゴルフクラブからヒントを得た38インチ(約96cm)の長いバット(「物干し竿」と呼ばれたそうです)を特注すると、

バットを目一杯長く持って振り回し、反発係数の高い「ラビットボール」を打ちまくってホームランを量産したのでした。

藤村富美男

藤村富美男は33歳(阪神タイガース入団14年目)の時に、最多安打、本塁打王、打点王の日本記録を更新していた

そんな藤村富美男さんは、入団14年目の1949年、33歳の時には、187安打(最多安打)、46本塁打(本塁打王)142打点 (打点王)と、当時の日本記録を、安打数、本塁打、打点のすべてで更新すると、

チームは下位(8チーム中6位)にも関わらず、MVPを獲得するという前代未聞の偉業を成し遂げ、

このような活躍から、甲子園は満員で入場できない人も出るほど、藤村富美男さんは凄まじい人気を誇ったのでした。

藤村富美男は37歳(阪神タイガース入団18年目)の時に本塁打と打点の二冠王に輝いていた

そして、1949年末から1950年初にかけて日本プロ野球が2リーグに分裂すると、大阪(阪神)タイガースは、若林忠志投手(選手兼任監督)、別当薫選手、土井垣武選手、呉昌征選手らが、毎日オリオンズに引き抜かれていったそうですが、

藤村富美男さんだけは、

わしゃタイガースの藤村じゃ

と言って1人残留し、

1950年5月25日の広島戦では、2度目のサイクル安打を達成するほか、セ・リーグ史上初の首位打者に輝くと、

入団18年目の1953年4月28日、29日には、日本プロ野球史上初の2試合連続満塁本塁打を放ち、再び、本塁打と打点の二冠王を獲得したのでした。

また、藤村富美男さんは、1951年までは投手としても登板して、通算76試合に登板し、34勝11敗、防御率2.34という素晴らしい成績を残しており、打者、投手として、弱体化した阪神タイガースを一人で支え続けたのでした。

藤村富美男

藤村富美男は37歳(阪神タイガース入団19年目)の時に難波事件を起こしていた

ただ、藤村富美男さんは、入団19年目の1954年7月25日(藤村富美男さん37歳)には、中日の河合保彦捕手の捕球を巡って激しく審判に抗議し、”難波事件”を起こしています。

藤村富美男が39歳(阪神タイガース入団20年目)の時には公然と岸一郎新監督に逆らっていた

そして、1954年、シーズン終了後には、松木謙治郎監督が、試合中の不祥事(難波事件)の責任を取って辞任しているのですが、

その際、松木謙治郎監督が、選手兼任助監督だった藤村富美男さんを後任に推薦するも、野田誠三オーナーの意向により、翌1955年は、中央球界で全く無名だった岸一郎さんが新監督に就任すると、

岸一郎新監督の、ベテランも若手も分け隔てなく起用する方針に、藤村富美男さんは激しく反発し、試合中に公然と監督命令に逆らったこともあったといいます。

藤村富美男が39歳~40歳(阪神タイガース入団20年~21年目)の時には阪神監督就任も独善的なふるまいから監督退陣要求書を阪神ナインに提出されていた

そんな中、岸一郎監督は1955年シーズン途中の5月下旬に更迭され、その後は、藤村さんが選手兼任監督に就任したそうですが、

その独善的な振る舞いが、選手たちの反感を食らい、1956年シーズン終了後には、阪神ナイン総勢14名により、「藤村監督退陣要求書」(監督退陣を求める意見書)を野田誠三オーナーに提出されてしまいます。

(その後、巨人の川上哲治さんらの仲介により、藤村富美男さん排斥事件の中心選手たちが「藤村監督退陣要求書」を撤回し、藤村富美男さんは監督続投となっています)

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藤村富美男は42歳で現役を引退していた

その後、藤村富美男さんは、1957年シーズンは2位という成績だったのですが、監督を解雇されると、

1958年には、なんと、代打要員として現役選手へ復帰させられたそうですが、生涯打率3割を保つため、同年11月末、42歳で現役を引退したのでした。

藤村富美男

お読みいただきありがとうございました

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