1973年、ドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場など、素晴らしい成績を残し、「4代目ミスタータイガース」と称された、掛布雅之(かけふ まさゆき)さん。

今回は、そんな掛布雅之さんの若い頃(プロ入り1年目から現役引退まで)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。

掛布雅之

「掛布雅之の生い立ちは?少年時代は父親から特訓!習志野高校では4番ショート!」からの続き

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掛布雅之は18歳の時にドラフト6位指名で阪神タイガースに入団していた

高校生の時には、2年生の時に1度甲子園に出場したものの、プロから注目されるほどではなかったという掛布雅之さんですが、

お父さんが、かねてより親交のあった阪神タイガースの元トレーニングコーチの篠田仁さんに入団を掛け合い、入団テストを受けると、見事合格し、1973年、ドラフト6位で練習生同然で阪神タイガースに入団したそうです。

掛布雅之は19歳(阪神タイガース入団1年目)からオープン戦で活躍し一軍に抜擢されていた

そんな掛布雅之さんは、1年目の1974年は、一軍春季キャンプのメンバーに選ばれず、年俸も両リーグ最低の84万円と生活は苦しく、さらには、関西での生活にもなかなか馴染むことができずに苦労したそうですが、

オープン戦での活躍が認められて一軍に抜擢されます。

掛布雅之は20歳(阪神タイガース入団2年目)から三塁レギュラーに定着していた

そして、2年目の1975年の球宴(オールスター戦)後には、同期ドラフト1位の佐野仙好選手との三塁ポジション争いに勝ち、三塁レギュラーに定着すると、

このシーズンは、山内一弘打撃コーチによるレベルスイングの徹底指導を受け、1年目の成績を大きく上回る、(一軍公式戦106試合)打率2割4分6厘、29打点、11本塁打という成績を残します。

掛布雅之

掛布雅之は21歳(阪神タイガース入団3年目)で打率3割2分5厘、27本塁打でベストナインを獲得していた

さらに、掛布雅之さんは、入団3年目の1976年には、2年目を上回る、打率3割2分5厘、27本塁打をマークしてベストナインを獲得し、阪神タイガースの主軸選手へと成長します。

掛布雅之は23歳(阪神タイガース入団5年目)の時の球宴で3打席連続本塁打を放っていた

そんな掛布雅之さんは、その後も、

  • 入団4年目の1977年(22歳)には、打率3割3分1厘(自己最高を更新)、23本塁打、69打点
  • 入団5年目の1978年(23歳)には、打率3割1分8厘、32本塁打(自己最高を更新)、102打点(自己最高を更新)

と、優れた成績を残し、

1978年の球宴では、3打席連続本塁打を放つ活躍で、MVPも獲得しています。

掛布雅之は23歳(阪神タイガース入団5年目)の時に頭部死球を受け踏み込めなくなっていた

ただ、実は、1978年5月には、頭部死球を受け、検査の結果は異常なかったものの、それ以来、怖くて右足が思い切り踏み込めず、打てなくなった時期があったといいます。

掛布雅之は24歳(阪神タイガース入団6年目)の時に球団史上日本人最高記録となる48塁打で本塁打王に輝いていた

それでも掛布雅之さんは、1978年オフに田淵幸一さんが西武にトレードされ、入団6年目の1979年(24歳)、4番に起用されると、

阪神タイガース史上日本人最高記録となる48塁打を放って本塁打王に輝きます。

掛布雅之

掛布雅之は29歳(阪神タイガース入団11年目)の時に3度目の本塁打王に輝き「ミスタータイガース」と呼ばれるようになっていた

しかし、入団7年目の1980年4月、半月板損傷の重傷を負い、このシーズンを不本意な成績で終わると、オフには、大阪の某スポーツ紙に、

阪神、掛布放出

と、報じられます。

これに対し、掛布雅之さんは悔しくてたまらず、一層、練習に打ち込んだそうで、

  • 入団8年目の1981年には、自己最高の打率3割4分1厘(リーグ4位)
  • 入団9年目の1982年には、35本塁打、95打点で本塁打王と打点王の2冠王
  • 入団11年目の1984年には、37本塁打で3度目の本塁打王

と、素晴らしい成績を残し、「ミスタータイガース」と呼ばれるようになったのでした。

掛布雅之
1982年、巨人の江川卓投手よりホームランを放つ掛布雅之さん。

掛布雅之は30歳(阪神タイガース入団12年目)の時に阪神の21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に大きく貢献していた

そして、入団12年目の1985年、30歳の時には、全130試合に出場し、打率3割、40本塁打、108打点という素晴らしい成績を残し、阪神の21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に大きく貢献しています。

ちなみに、このシーズンでは、ランディ・バース選手、岡田彰布選手と共に、バックスクリーンに連続ホームラン(伝説の甲子園バックスクリーン3連発)を放っており、伝説となっています。

掛布雅之
ランディ・バース選手に続き、槇原投手からバックスクリーンにホームランを放つ掛布雅之さん。

掛布雅之は31歳、32歳(阪神タイガース入団13年目、14年目)の時には度重なるケガで成績不振に陥っていた

しかし、翌1986年は、手首に死球を受け、その後も度重なるケガで成績が低迷。

さらに、入団14年目の1987年、シーズン開幕を目前に控えた3月22日深夜には、飲酒運転で現行犯逮されてしまうと、

当時の阪神のオーナー(阪神電鉄社長)久万俊二郎氏に、「欠陥商品」と吐き捨てられ、プライドがズタズタに引き裂かれた掛布雅之さんは、1987年も引き続き、成績不振で終わってしまったのでした。

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掛布雅之は33歳の若さで現役を引退していた

そんな掛布雅之さんは、再び輝きを取り戻すことができず、1988年シーズン途中の9月14日、33歳という若さで現役を引退したのでした。

「掛布雅之の生い立ちは?少年時代は父親から特訓!習志野高校では4番ショート!」

掛布雅之
1988年、引退試合の後に胴上げされる掛布雅之さん。

お読みいただきありがとうございました

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