1982年、再び、広岡達朗監督の招聘で、西武ライオンズの一軍ヘッドコーチに就任すると、ヤクルト時代同様に、広岡監督の片腕として、広岡イズムを徹底的に浸透させ、同年の西武ライオンズ初のリーグ優勝&(西鉄時代を含めて)24年ぶりの日本一と翌1983年の2連覇達成に大きく貢献した、森祇晶(もり まさあき)さんは、日本シリーズでは、巨人のエース・江川卓投手の必殺法も編み出していたといいます。

「森祇晶は広岡西武でもヘッドコーチでリーグ優勝&日本一に貢献していた!」からの続き

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巨人との日本シリーズでエース・江川卓投手の必殺法を編み出していた

1983年の巨人との日本シリーズでは、森さんが推薦した伊東勤捕手を広岡達朗監督が第4戦から起用して、日本一となった西武ですが、

実は、広岡監督は、巨人を倒すにはエースの江川卓投手を倒すしかないとも考えていたそうですが、尾張久次スコアラーには、「今年の江川は絶好調でつけ入るスキがない」と言われ、困り果てていたのだそうです。

そこで、広岡監督が森さんに相談すると、森さんはシーズン中の江川投手のビデオ映像を集めて捕手の目で分析し、毎日選手たちにビデオを見せて江川投手の長所と短所を徹底的に教え込んだそうで、

広岡監督は、

森が江川必殺法を見つけてくれたおかげで、因縁の日本シリーズは先発2度、リリーフ1度の江川を攻め込んで白星を与えず、4勝3敗で競り勝った

と、語っています。

西武コーチ時代も広岡達朗監督の参謀役を忠実に実行して選手たちから反感を持たれていた

そんな森さんですが、広岡監督は、「週刊ベースボール」の「広岡達朗のコラム」で、

正直にいうと、(森さんは)選手からの受けはよくなかった。西武時代には選手会長の永射保が選手の総意として森への不満を私のところに直接、伝えにきた。

森は、教えられないという欠点があった。選手を手取り足取り教えていたのは、むしろ監督の私のほう。こうしろああしろと言うと選手が反発するため、森は「監督命令だ」を盾に使った。彼は利口なので、困ったら監督の名前を利用して選手を従わせようとしたのだ。

選手も黙るしかない。私はそんな監督命令を出した覚えはない、ということが多かった。たまりかねて永射が「森さんがうるさ過ぎて、かないません」と直談判。私は森に「何も言うな。しばらく黙っておけ」と言った。

と、森さんが選手たちから反感を持たれていたことを明かしています。

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江夏豊が森祇晶の本音を証言

ただ、当時、西武に在籍していた江夏豊さんによると、森さんは、ホテルで全選手の部屋の見回りを終えた後、自分の部屋に入ってきて、「俺だってこんな役回りはしたくない」と言っていたそうで、

西武でも、ヤクルト時代同様、あくまで、広岡監督の管理野球を忠実に実行するためにしていたことのようです。

「森祇晶は広岡監督の人格に疑問を持ち西武ヘッドコーチを辞任していた?」に続く

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