1978年、ヤクルトスワローズの広岡達朗監督の要請で、一軍バッテリー兼作戦コーチに就任すると、参謀役として管理野球を徹底し、ヤクルト球団史上初のリーグ優勝&日本一に貢献した、森祇晶(もり まさあき)さんは、1982年にも、西武ライオンズの監督となった広岡さんから再び呼ばれ、一軍ヘッドコーチに就任すると、西武のリーグ優勝&日本一に貢献しています。
「森祇晶は広岡ヤクルトでコーチで初優勝に貢献するも翌年途中退団していた!」からの続き
広岡達朗監督に再び呼ばれ西武ライオンズの一軍ヘッドコーチに就任
ヤクルトスワローズでは、広岡達朗監督が1979年シーズン途中の8月に辞任すると、後を追うように9月にコーチを辞任した森さんは、その後、1980から1981年まで、TBSで解説者、デイリースポーツで評論家として活動していたのですが、
1982年には、再び、(前年に西武ライオンズの監督に就任した)広岡監督に呼ばれ、西武ライオンズの一軍ヘッドコーチに就任します。
西武ライオンズの2年連続日本一に貢献
すると、ヤクルト時代同様、コーチ就任1年目にして、西武ライオンズは(球団創設19年で)初のリーグ優勝、日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下して、(西鉄時代も含め)球団24年ぶりの日本一。
さらには、翌1983年も、2位の阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走でリーグ優勝(連覇)を果たすと、巨人との日本シリーズでは、シリーズ新記録となる3度のサヨナラ試合を含む4勝3敗で巨人を制し、2年連続日本一に輝いたのでした。
巨人との日本シリーズでプロ2年目で新人同然の伊東勤捕手を推していた
また、西武ライオンズの黄金時代に長年正捕手として活躍した伊東勤選手は、森さんの一言で、広岡監督が正捕手に抜擢していたといいます。
実は、1983年の巨人との日本シリーズ、西武には黒田正宏選手と大石友好選手という2人の捕手がいたそうですが、この2人は巨人ベンチにクセを読まれていたそうで、広岡監督が森さんに意見を求めると、森さんは、即座に、まだプロ2年目で新人同然の伊東選手を推したのだそうです。
そこで、広岡監督が、1勝2敗で迎えた第4戦に伊東選手を先発で出場させると、(巨人にとっては、未知数の存在だったため)この起用はうまくいき、以降、第7戦まで伊東選手を起用すると、西武は2年連続日本一を果たすことができたそうで、
広岡さんは、後年、
あの日本シリーズを機に伊東は飛躍を遂げ、西武の扇の要を守ることになった。森の見る目の確かさの賜物だった。
と、語っています。
(広岡さんは、伊東選手が、投手のボールを受けた後、必ず立ち上がって返球していたことも高く評価していたそうです)
大矢明彦のコメント
ちなみに、元ヤクルト捕手の大矢明彦さんも、
(伊東選手は)いかにも森祇晶さんに育てられた捕手だよなぁと感じます。伊東は粘り強いリードができる捕手でした。勝負に対して最後まであきらめないんです。この粘り強さが、西武の黄金時代を築いた一因になったのは間違いないでしょう。
と、語っています。
「森祇晶は西武コーチ時代に巨人のエース江川卓必殺法を編み出していた!」に続く