阪神入団1年目の1974年、オープン戦で18打数8安打2二塁打の好成績を残し、開幕から一軍入りを果たした、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、このシーズン、同期でドラフト1位の佐野仙好選手と三塁のポジション争いをするのですが、2年目の1975年、球宴(オールスター戦)後には、吉田義男新監督により、三塁レギュラーとして固定されます。

「掛布雅之は阪神入団1年目から開幕一軍を果たしていた!」からの続き

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同期ドラ1の佐野仙好との三塁のポジション争いとなっていた

阪神タイガース入団1年目の1974年、オープン戦で、太平洋クラブ(現・西武)ライオンズ戦で4打数2安打、近鉄(現・オリックス)バファローズ戦で4打数4安打の活躍を見せるほか、18打数8安打2二塁打の好成績を残し、開幕から一軍入りを果たした掛布さんは、目をかけてくれた金田正泰監督の期待に応えようと、必死に練習したそうで、

三塁手として中央大学からドラフト1位で入団した同期で4学年上の佐野仙好選手と三塁のポジション争いとなります。

(掛布さんは、もともとは遊撃手だったのですが、遊撃手は藤田平選手が定着していたため、三塁手でポジション争いとなったのだそうです)

同期ドラ1の佐野仙好には決して負けたくなかった

ちなみに、掛布さんは、(ビジターの)試合前の約1時間の全体練習では、打撃練習は5分程度にして、あとはノックを受け続けて試合に臨んだそうで、ユニホームを泥だらけにして練習し、キャンプのような日々が1年間ずっと続いたそうですが、

同じポジションでドラフト1位。佐野さんには負けたくなかった

三塁のポジション争いで『ライバル』と感じたのは当時の佐野さんだけだった

と、佐野さんに負けたくないとの思いから、決して弱音を吐かなかったそうで、

結果、高卒ルーキーながら1年目(1974年)から、全130試合のうち、シーズンの半数以上の83試合に出場して、打率2割4厘、16打点、3本塁打という成績を残したのでした。

(掛布さんは、自分がプロで活躍できるとは夢にも思っておらず、大学に行ったつもりで4年間、自分を納得させて野球を辞めるために阪神に入団していたことから、入団当初は、「4年たったら、どうしよう。ずっと二軍だったら、千葉にどんな顔をして帰ればいいんだろう」という不安を抱えていたそうですが、この1年でそんな思いは吹き飛んだそうです)

阪神入団2年目の1975年夏場を過ぎた頃に三塁レギュラーとして固定されていた

そして、入団2年目の1975年には、吉田義男さんが新監督に就任し、シーズン前半は、右打者の佐野選手と併用され、左打者である掛布さんのスタメン出場は右投手の登板が予想される試合に限られていたそうですが、

やがて、吉田監督に、「サードのレギュラーとして使っていく。その準備をしておけ」と言われたそうで、球宴(オールスター戦)後は、三塁をほぼ一人で任されるようになったのでした。

(吉田監督は、掛布さんと佐野さんにサードのポジションを争わせていたそうで、試合の時は、対戦相手が右投手の時は掛布さん、左投手の時は佐野さんを起用し、8番に入れていたそうですが、夏場を過ぎた頃、一枝修平コーチの「サードは掛布で固めましょう」との進言を受け入れ、掛布さんをサードに固定し、佐野選手は外野手にコンバートしたのだそうです)

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吉田義男は掛布雅之の圧倒的な練習量を絶賛していた

ちなみに、吉田監督は、掛布さんが入団2年目のシーズン、掛布さんのお父さんと何かの折に会い、

お父さんから、

私は、雅之をどんなことにも耐えられるように育ててきました。びしびし鍛えて、なんとかレギュラーの選手にしてやってください

と、訴えられたそうですが、

その言葉に嘘はなかったそうで、

(掛布は)キャンプのとき、球場で400mを10周する長距離走をやれば、必ずトップで帰って来る。すべての練習が終わった後に行われる「特守」で、三人のノッカーが入れ替わり立ち代わり、掛布一人目掛けて千本ノックを浴びせても、ユニホームを泥だらけにして立ち向かってきた。

宿舎でも合宿所でも、だれよりも多くバットを振った。千葉の実家に帰るときも、布の立派なケースに入れてバットを持ち帰ったので、文字通り1日も休まず、素振りを繰り返していたに違いない。

その練習量、その気迫において、彼を上回った選手を私は知らない。心・技・体とよく言われるが、私は、まず体力が肝心だと思う。揺るぎない体力を持つことで気力が生まれ、そして技術が伸びていく。 掛布がその典型例である。

と、著書「阪神タイガース」で綴っています。

「掛布雅之が若い頃は山内一弘からレベルスイングの猛特訓を受けていた!」に続く

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