1974年、習志野高校からドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、1年目から一軍に定着し、その後、不動の4番打者として、1979年、1982年、1984年に本塁打王、1982年に打点王に輝く活躍で、「4代目ミスタータイガース」と称された、掛布雅之(かけふ まさゆき)さん。
そんな掛布雅之さんは、千葉商業高校の硬式野球部で部長と監督を兼務していたお父さんの影響で、幼い頃から野球を始めると、中学の野球部では、お父さんが監督に就任し厳しい特訓を受けたそうで、
中学卒業後は、習志野高校に進学すると、高校2年生の時には、4番ショートとして、チームを甲子園に導きます。
今回は、掛布雅之さんの、幼少期(生い立ち)から高校時代までをご紹介します。
掛布雅之が小学生の時はバットを振ることが好きな少年だった
掛布雅之さんは、千葉商業高校の硬式野球部で部長と監督を兼務していたお父さんの影響で、幼い頃に野球を始めると、
小学生の時には、自宅近くの公園に行き、高さの違う雑草の葉を投手が投げるボールに見立ててバットを振ることが何よりも好きな少年だったそうで、いつまでもバットを振り続けていたそうです。
また、野球以外にも、剣道、水泳、サッカーなど様々なスポーツに励んでいたそうですが、鉄棒で大車輪ができたほど運動神経が抜群だったといいます。
1974年、ドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、1979年には、チーム新記録で本塁打王を獲得するほか、1982年、1984年も本塁打王になるなどの活躍で、「ミスタータイガース」と称された、掛布雅之(かけふ まさゆき …
掛布雅之が中学生の時は父親が監督の野球部で厳しい特訓を受けていた
掛布雅之さんは、中学に進学すると、野球部に入部したそうですが、
お父さんが監督をすることになったそうで、お父さんは、自分の息子に甘い監督だと思われたくないとの思いから、掛布雅之さんに特に厳しく接したそうで、
誰かがミスをすると、三塁手の掛布雅之さんに戻ってノックが始まるという厳しい特訓が課されたといいます。
掛布雅之は父親から自立したい気持ちから習志野高校に進学していた
そんな掛布雅之さんは、中学卒業後は、親の七光りだと思われたくなかったのと、お父さんから自立したいとの気持ちから、
かつて、お父さんが野球部の部長と監督を務めていた地元の千葉商業高等学校には進学せず、地元から離れた千葉県習志野市立習志野高校に進学したそうです。
小学生の時には、自宅近くの公園で、高さの違う雑草の葉を投手が投げるボールに見立て、いつまでもバットを振り続けるほど、バットを振ることが好きだったという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、中学では野球部に入部するのですが …
掛布雅之は高校2年生の時に関東大会決勝戦で先制打を放つなど甲子園出場に大きく貢献していた
すると、掛布雅之さんは、習志野高校野球部では、1972年、高校2年生の時には、4番ショートとして、関東大会決勝戦で先制打を放つなど、甲子園出場に大きく貢献。
(甲子園では1回戦で敗退)
1972年、高校2年生の時の掛布雅之さん。
ただ、1973年、高校3年生の夏の選手権大会では、木更津中央高等学校に敗退し、甲子園には出場できませんでした。
中学時代は、お父さんが野球部の監督だったことから、特に厳しくされていたにもかかわらず、親の七光のように思われていたという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、高校は、お父さんから自立したいとの思いで、地元を離れ、習志野高 …
(ちなみに、掛布雅之さんは、高校時代、巨人の阿部慎之助監督の父親の阿部東司さんと同級生で、2学年下の後輩には、ヤクルト・スワローズの元監督・小川淳司さんがいたそうです)
習志野高校野球部時代、2年生の時には、関東大会決勝戦で先制打を放つなど、甲子園出場に大きく貢献した、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんですが、実は、巨人の阿部慎之助監督の父親の阿部東司さんと同級生だったほか、2学年後輩には …
「【画像】掛布雅之の若い頃は?ルーキーから現役引退までの成績は?」に続く
1973年、ドラフト6位で阪神タイガースに入団すると、本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場など、素晴らしい成績を残し、「4代目ミスタータイガース」と称され …